第10話:100日目の審判

「……来たな、この日が」


 二〇二六年三月二十日。イグルーの薄暗い入り口から這い出した佐藤は、眩しさに目を細めた。  空はどこまでも高く、突き抜けるような群青色だ。百日間、彼らを絶望の底に繋ぎ止めていた分厚い雲は、どこにもない。鼻腔をくすぐるのは、冷たい雪の残り香と、それ以上に濃厚な「濡れた土」と「芽吹きの気配」だった。


 懐のスマホが、狂ったように震えだす。  画面には、真っ赤な文字でカウントダウンが刻まれていた。 【00日00時間05分42秒】  それは、東京都が算出した佐藤の「命の期限」だ。


「佐藤さん、顔色が悪いぜ。今日死ぬ予定の男には見えねえな」  雪解けで少しぬかるみ始めた地面を、田中が長靴で景気よく踏み鳴らしてやってきた。 「田中さん……。システム上では、あと五分で俺は『死人』だ。戸籍も、口座も、すべてが消える」


「消えさせておけよ。そんな紙っぺらの繋がり。……見ろよ、あっちを」  田中が指差した先には、廃屋を改造した工房から煙を上げる杉本や、新しく「星落ち」してきた者たちに薪の割り方を教えているカイの姿があった。  そして、その中心には、冬の間は沈黙していた小さな小川が、氷の殻を脱ぎ捨てて「チョロチョロ」と涼やかな音を立てて流れていた。


「佐藤さん! 突っ立ってないで、こっち手伝いな!」  川べりで腰を屈めていたトメが、声を張り上げた。 「ほら、見てごらん。春のご褒美だよ」


 佐藤が川に歩み寄ると、そこには透き通った冷たい水に揺れる、鮮やかな緑の群生があった。 「これ……芹(せり)ですか?」 「そうさ。むつみの春は、この芹の香りで始まるんだ。指を突っ込んでごらん。冷たいけど、力が湧いてくるよ」


 佐藤は泥の上に膝をつき、川に手を入れた。  「――っ!」  刺すような冷たさ。しかし、その奥に確かに、冬を耐え抜いた水の「動」を感じた。芹の茎を指先で探り、根元からそっと摘み取る。  その瞬間、清涼で、少しだけほろ苦い香りが弾けた。


「いい香りだ……。東京のスーパーで買ってたのとは、全然違う」 「当たり前だよ。これは命を懸けて雪を押し退けてきた芹なんだから」  トメが笑う。その顔の深い皺が、今の佐藤には美しい年輪のように見えた。


 その時、スマホが激しい電子音を奏でた。 【00:00:00】 【対象者のバイタル消失を確認中……。最終処理を開始します】


 上空。春を知らせる鳥の囀りを切り裂いて、大型ドローンの不快な駆動音が近づいてくる。  東京都孤独死管理室の「遺体回収機」だ。それは佐藤のイグルーの真上で停止し、無機質なレンズで佐藤を捉えた。


『警告。対象者・佐藤。あなたはシステム上、すでに死亡しています。速やかに横たわり、回収を待ってください。抵抗は無意味です』


 ドローンのスピーカーから漏れる声は、かつての担当官・黒木のものだった。録音か、あるいは遠隔地からの実況か。


「死んでる……だと?」  佐藤は立ち上がり、摘んだばかりの芹を、ドローンのカメラに向かって高く掲げた。 「黒木さん! あんたの目は節穴か! 俺の足は地面を踏みしめてる。俺の鼻はこの芹の香りを嗅いでる。俺の心臓は、あんたへの怒りで、東京にいた時よりもずっと激しく動いてるんだよ!」


「そうだ! こいつは生きてるぞ、このバカ野郎!」  田中がスコップを振り回して叫ぶ。 「杉本さんも、カイも、トメさんも、嘉平さんも! みんな生きてる! あんたらの計算式に『幸福』って項目がないから、俺たちが見えねえんだろう!」


 川辺には、いつの間にか村の住人たちが集まっていた。先住の嘉平たちも、後から来た若者も、誰もが「死人」として扱われた佐藤を守るように、ドローンを睨みつけている。  かつての東京にはなかった、物理的な、体温のあるコミュニティ。


『……データに異常あり。生存反応を拒否。再計算します』  ドローンが混乱したように空中で揺れた。


「再計算なんて必要ない!」  杉本が、自家製の送信機を片手に歩み出た。 「黒木君、君のシステムに、このむつみ地区の全住民の声を一括送信してやった。……死人がこんなに大声で喋るわけがないだろう?」


 ドローンの赤灯が点滅し、やがて力なく消えた。  システムが、「生存」という圧倒的な事実の前に沈黙した瞬間だった。  ドローンは首を垂れるようにして反転し、山向こうの東京へと去っていった。


「……勝った。俺たち、勝ったんだな」  佐藤は膝の力が抜け、その場に座り込んだ。  手の中には、まだ芹の香りが残っている。


「勝負はこれからだよ、佐藤さん」  カイが、眩しそうに空を仰ぎながら言った。 「今日から、佐藤さんはこの村の『正式な居候』なんだから。あ、芹、俺も摘むの手伝いますよ。今夜は芹鍋にしましょう。俺、東京でバイトしてた時に覚えた旨い出汁の取り方、みんなに伝授しますから」


「いいな。最高だ」  佐藤は笑った。涙が溢れて止まらなかったが、それは冬の終わりの雪解け水と同じ、温かな涙だった。


 東京都孤独死予定者、佐藤。享年六十八――となるはずだった男は、この日、むつみの村の「新人」として生まれ変わった。  川のせせらぎ、芹の香り、仲間の罵声、そして土の温もり。  五感のすべてが叫んでいた。


 俺は、ここで生きている、と。


「よし、今夜は宴会だ! 大河内、お前は酒の注文をドローンに叩き込め! 俺の最後の生活保護費、全部使い切ってやる!」  田中の豪快な笑い声が、春のむつみの山々に、いつまでも反響していた。


 ――「むつみの灯」 完――


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