第11話:雪解けの再出発
「……おい、佐藤。見てみろよ、このスマホ」
田中の声に、佐藤は雪解け水で湿った長靴を止め、懐の端末を取り出した。 画面には、かつての血のような赤色ではなく、穏やかな若草色の通知が表示されている。
【東京都孤独死未然防止プログラム:システムエラーにより停止】 【移送対象者・佐藤:生存ステータスを恒久的に固定。帰還希望者は申請してください】
「……バグ、か」 「バグなんかじゃねえよ。俺たちが生きてるっていう事実が、あいつらの計算式をブチ壊したんだ」 田中がガハハと笑い、泥のついた手で佐藤の肩を叩く。
空からは、監視ドローンの不快な羽音が消えていた。都庁は敗北を認め、棄てた老人たちを「なかったこと」にする代わりに、この地を放念したのだ。
「佐藤さん、帰るのか? 東京。あんな、隣に誰が住んでるかもわからねえ、コンクリートの孤独に」
佐藤は、視線をスマホから足元へと移した。 そこには、残雪を力強く押し退け、丸い頭を覗かせている小さな命があった。フキノトウだ。
「……まさか。あんな寂しい場所、もう戻りたくないよ」 佐藤は膝をつき、指先でフキノトウの周りの雪をそっと退けた。 指先に触れる、少し湿った産毛のような感触と、独特の野性味あふれる春の香りが鼻腔をくすぐる。 「見てください、田中さん。こいつ、こんなに小さくても、ここで生きようとしてる」
「おう、トメさんの言った通りだ。雪の下は、死の国じゃねえ。準備の国だったんだな」
佐藤は慎重にフキノトウを数個摘み取り、廃屋を改造した「村の台所」へと向かった。 中では、トメが大きな鉄鍋で湯を沸かし、杉本とカイが今後の村の電力網について議論を交わしていた。
「あ、佐藤さん。いいフキノトウを摘んできたじゃない」 トメが目を細め、佐藤の手から緑の宝物を受け取る。 「さあ、刻みな。春の苦味は、冬の毒を洗い流してくれるんだよ」
佐藤はまな板に向かい、包丁を握った。 ザクッ、ザクッ。 新鮮な茎が切れるたびに、目が覚めるような、鮮烈でほろ苦い香りが立ち昇る。 東京のスーパーでパック詰めされていたものとは違う。この土の匂い、風の冷たさ、そして仲間の笑い声が含まれた、命の匂いだ。
「おーい、味噌汁、できたぞ!」 佐藤が声をかけると、作業を止めた仲間たちが集まってきた。 お椀に注がれた熱い味噌汁。その表面に、刻みたてのフキノトウをパラリと浮かべる。
「……あぁ、これだ。これだよ」 大河内が、かつてのエリートの顔を崩して、お椀を両手で包み込んだ。 「東京のオフィスで、一食数千円のランチを食べていた時よりも、今、この一杯の方がずっと……誇らしい」
佐藤も一口、汁を啜った。 味噌の深いコクの中に、フキノトウの強烈な苦味が弾ける。その苦味は、喉を通る時に心地よい刺激となり、体中の細胞が「目覚めろ」と叫んでいるような感覚に陥った。
「……うまい」 レンが、鼻を赤くしながら言った。 「俺、ここに残ります。東京に戻ってまた『予備軍』になるなんて御免だ。ここで、この村のWi-Fiを世界中に繋いで、もっと『星落ち』たちを呼んでやる。ここはもう、姥捨て山じゃない。新しい、俺たちの居場所なんだ」
「共生、か」 杉本が、フキノトウを噛みしめながら呟いた。 「独りで死ぬ確率を競い合う街を捨てて、共に生きる苦労を分かち合う村を作る。……佐藤さん、これこそが、俺たちの本当の『再出発』だな」
外では、雪解け水が小川となって、賑やかな音を立てて山を流れていく。 昨日まで「死」を待つための檻だったこの場所は、今、自給自足のエネルギーと、人間の温もりが循環する、名もなき理想郷へと姿を変えていた。
佐藤は、窓から見える広大な山々を眺めた。 かつては、独りで死ぬことが最大の恐怖だった。 でも今は、明日誰と何を植え、誰と笑い、どんな苦い春を味わうかを考えるだけで、胸が熱くなる。
「孤独死は、もうここにはない」 佐藤は確信を持って呟いた。 「あるのは、ただの『命の終わり』と、それを看取る『仲間の手』だけだ」
空には、春の陽光が降り注いでいた。 棄てられた者たちが、自らの手で拾い上げた「生」。 むつみの村の煙突からは、フキノトウの香りを乗せた白煙が、どこまでも高く、自由な空へと昇っていった。
――「むつみの灯」 全十一話・完――
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