第8話サブタイトル案: 『氷の聖域(サンクチュアリ) 〜雪のレンガと、幸福な寝袋〜』

「……これ、本当に中で寝られるのか?」


 佐藤は、目の前に完成しつつある白銀のドームを見上げ、溜息をついた。  むつみの巨石で一夜を過ごし、大地の温もりを知った翌朝。彼らが最初に取り組んだのは、廃屋に頼らない「真のシェルター」作りだった。指導するのは、元建築職人の田中だ。


「佐藤さん、甘く見ちゃいけねえ。これは『かまくら』じゃねえんだ。『イグルー』っていう、北の民が命を預ける本物の家だよ」


 田中は、杉本が改良したスコップで、踏み固められた雪を正確な長方形に切り出していく。ザクッ、ザクッ、という小気味よい音が、凍てつく朝の空気に響く。切り出された雪のブロックは、驚くほど硬く、まるで大理石のような質感を備えていた。


「いいか、螺旋(らせん)状に積んでいくんだ。重心を少しずつ内側に傾けてな。最後の一塊――キー・ブロックがピタリと嵌まった瞬間、この雪の塊は一つの剛体になる。物理の勝利だよ」


 田中が積み上げ、佐藤が隙間に柔らかな雪を詰め、レンが内側から形を整える。  指先は冷たい。だが、体を動かしているうちに、背中からはじわりと汗が滲み出してきた。雪のブロックを触るたび、その表面の微細な氷の粒がキラキラと朝日に反射し、まるで宝石を積み上げているような錯覚に陥る。


「……できた。本当に、ドームになった」


 レンが、最後の頂点の穴を雪の塊で塞ぎながら、感嘆の声を上げた。  完成したのは、直径三メートルほどの美しい半球体だ。入口は冷気が直接流れ込まないよう、少し低く掘り下げられたトンネル状になっている。


「さあ、入ってみろ。極上のホテルだぜ」


 田中がニヤリと笑い、佐藤を促した。  狭い入口を這うようにして中に入ると、まず驚いたのはその「静寂」だった。外で吹き荒れる風の音が、厚い雪の壁に遮断され、まるで耳栓をしたかのような完璧な無音の世界が広がっている。


「……暖かい。いや、寒くないって言うべきか」


 佐藤は自分の吐く息が、白いヴェールのように室内に漂うのを見た。雪の壁は驚異的な断熱材だ。自分たちの体温が逃げ場を失い、ドームの中にじわりと溜まり始めているのがわかる。


「ここに、杉本さんがドローンで取り寄せた『極地用寝袋』を敷く」


 レンが、圧縮袋から取り出したばかりのダウンの寝袋を広げた。シュワーッという音を立てて空気を吸い込み、ふっくらと膨らむそれは、まるで巨大なマシュマロのようだった。


「レン、よくやった。……さあ、飯にしよう。今日はイグルー完成記念だ」


 トメが、雪で作った小さな棚の上に、携帯用の固形燃料を置いた。  小さな青い炎が立ち上がると、白い壁に揺らめく影が踊る。鍋の中では、昨日嘉平からもらった大根と、ドローンで届いた乾肉が、コトコトと煮えていた。


「……ああ、この匂い。生きてるって感じがするわね」


 トメが、木のお椀にスープを注ぐ。  佐藤はそれを両手で包み込んだ。温もりが指先から腕へ、そして心臓へと駆け抜ける。一口啜ると、大根の滋味と肉の塩気が、空腹の胃袋に染み渡った。


「なあ、田中さん。俺、東京にいた頃、何不自由ないマンションに住んでたはずなのに、毎日が寒くて仕方がなかったんだ」


 佐藤は、スープの湯気の向こう側を見つめながら呟いた。 「壁一枚向こうには何千人も人間がいて、電気もガスもボタン一つだった。なのに、心の中はいつも、このむつみの吹雪の中にいるみたいで……。でも、今、この雪で作った不自由な家の中で、俺……」


「……しあわせだなー、って思ってるんだろ?」


 田中が、図星だというように笑った。 「俺もだよ。あんなに広い現場を指揮してた俺が、たった数畳の雪の穴蔵で、こんなに満たされた気分になるなんてな。……人間、本当に必要なものなんて、実はほんの少しなんだ」


 食事を終え、彼らはそれぞれの寝袋に潜り込んだ。  佐藤が寝袋のジッパーを首元まで引き上げると、最高級のダウンが優しく体を包み込み、自分の体温が瞬く間に寝袋を満たした。  背中の下には、田中が敷き詰めた断熱シートと、その下の雪の層。冷たさは感じない。むしろ、大地に直接抱かれているような、圧倒的な安心感があった。


「……静かだね、佐藤さん」


 隣の寝袋から、レンの穏やかな声が聞こえる。 「東京のノイズがない。スマホの通知も、誰かの愚痴も、車の音も。……ただ、自分の呼吸の音だけが聞こえる」


「ああ……本当だ。これが『家(イグルー)』なんだな」


 佐藤は、ドームの天井を見上げた。  火を消したあとの室内は、月光が雪を透かして、淡い青色に輝いている。まるで真珠の内部にいるような、幻想的で清浄な光。  鼻腔をくすぐるのは、清涼な冬の空気と、寝袋の清潔な羽毛の匂い。  目を閉じると、外ではまた雪が降り始めたのか、パラパラと壁を叩く微かな音がした。それは、かつて恐怖した「死の足音」ではなく、自分たちの安眠を守る「子守唄」のように聞こえた。


「……しあわせだ。本当に」


 佐藤の口から、無意識に言葉が漏れた。  明日にはまた、東京都の介入があるかもしれない。食料が尽きるかもしれない。カウントダウンの数字は、着実にゼロへと向かっている。  けれど、今のこの瞬間。  仲間と笑い、腹を満たし、雪のブロックに守られて温かい寝袋に包まれている。  その事実だけで、人生のすべての負債が帳消しになったような、深い充足感に包まれていた。


「おやすみなさい、皆さん」 「おやすみ、佐藤さん」 「明日も、大根掘るよ……」


 一人、また一人と、穏やかな寝息を立て始める。  むつみの雪原にポツンと灯った、白銀のドーム。  それは、棄てられた老人たちが、自らの手で築き上げた「幸福の砦」だった。


「残り55日」。  彼らは今、死に向かっているのではない。  本当の人生を、このイグルーの中から、一歩ずつ歩み始めていた。


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