第7話:むつみの守り神

「……切れた。電波、一本も立ってない」


 レンの声は、吹き荒れる風の咆哮にかき消されそうだった。  深夜。むつみ地区を襲ったのは、数十年ぶりという猛吹雪だった。廃屋の屋根はミシミシと悲鳴を上げ、杉本が苦労して築いたバイオマス発電のパイプは、雪の重みで無残にへし折れた。頼みの綱だったスマートフォンも、今はただの冷たいガラスの板と化している。


「あいつら、やりやがったな……」  田中が、隙間風に震える火を囲みながら吐き捨てた。 「情報統制か、物理的な破壊か。どっちにしろ、東京は俺たちを『圏外』に追いやりやがった」


 その時、廃屋の扉が激しく叩かれた。 「開けろ! 星落ちの衆、生きてるか!」  現れたのは、第3話で大根を置いていったあの村の老人だった。名前は嘉平(かへい)という。彼は蓑(みの)のような防寒具をまとい、全身を雪の鎧で固めていた。


「この屋根じゃあ、夜明けまで持たねえぞ! 雪崩が来る。……『畳岩(たたみがわ)』へ逃げるぞ!」 「畳岩……?」  佐藤は、凍えそうな手で毛布を握りしめながら聞き返した。


「むつみの守り神だ。あそこなら、どんな雪でも潰れねえ。急げ!」


 佐藤たちは、嘉平の導きで雪の壁の中へと足を踏み出した。  視界はゼロ。頼れるのは、嘉平が持つ古びたカンテラの鈍い光と、互いの背中を掴む手の感覚だけだ。雪が顔に当たると、針で刺されたような激痛が走り、肺に吸い込む空気はあまりに冷たくて喉が焼けるようだった。


「佐藤さん、離さないでよ!」  レンの若い叫び声が、風の中に溶けていく。  死が、すぐそばまで来ている。東京のワンルームで感じていた「寂しい死」ではない。大自然という巨大な顎に噛み砕かれる、暴力的な死の気配だ。


 どれほど歩いただろうか。  突然、風の音が遠のいた。  気がつくと、彼らは巨大な、あまりに巨大な岩の裂け目の前に立っていた。それは複数の巨石が重なり合い、天然の巨大なホールを形成している場所――伝説の「むつみの巨石」だった。


「……なんだ、ここ」  大河内が、感嘆の声を漏らした。  岩の内部は、外の地獄が嘘のように静かだった。そして、不思議なことに、暖かかった。火があるわけでもないのに、岩肌から微かな熱が放射されているような、母の胎内にいるような柔らかな温度。


「ここはな、大昔から修行者や、生きるのを諦めた者が集まった場所だ」  嘉平がカンテラを置くと、岩壁に自分たちの影が大きく映し出された。 「『むつみ』ってのはな、『睦み合う(むつみあう)』から来てる。独りで死ぬんじゃねえ。この大地の温もりに包まれて、みんなで睦んで、また次の命に還るための場所なんだよ」


 佐藤は、おそるおそる岩壁に掌を当てた。  ザラリとした感触。だが、その奥からドクン、ドクンと地脈が脈打つような振動が伝わってくる。 「……生きてる。この岩、生きてるみたいだ」


「佐藤さん……見てください」  レンが、岩の奥を指差した。  そこには、幾千もの小さな石が積み上げられていた。一つひとつの石には、墨で名前や、短い言葉が書き込まれている。 『寂しくない』 『また会おう』 『土に還るだけ』


「これらはな、何百年も前からここで最期を迎えた者たちが残した言葉だ」  嘉平の声が、静かに岩に反響する。 「東京の役人は、孤独死を『失敗』だと言ったんだろう? だが、ここでは違う。独りで死ぬことは、孤独じゃねえ。この土地、この岩、この雪……万物の中に、自分の欠片を還していくことなんだ。ここは『捨てられた場所』じゃねえ。……『還る場所』なんだよ」


 佐藤は、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。  不思議な感覚だった。スマホの電波がない。誰とも繋がっていない。それなのに、東京で一千万人の群衆の中にいた時よりも、ずっと「独りではない」と感じていた。  壁に刻まれた無数の名もなき先人たちの記憶が、今の自分を全肯定してくれているような。


「……俺は、ずっと怖かった」  大河内が、膝を抱えて呟いた。 「システムを組み、効率を追い求めたのは、自分が『無駄なもの』として捨てられるのが怖かったからだ。孤独になるのが、死ぬほど怖かった。……でも、ここには、そんな恐怖がない」


「当たり前だ、大河内」  田中が、岩の床に大の字に寝転がった。 「俺たちは、最初からこの大地の一部だったんだよ。都会のコンクリートが、それを忘れさせてただけだ。……黒木の野郎に教えてやりたいぜ。ここにある『温もり』は、お前らの計算機じゃ一生測れないってな」


 岩の隙間から、わずかに月光が差し込んだ。  雪の結晶が光に反射し、ダイヤモンドのように輝きながら舞い落ちる。  佐藤は、自分の胸に手を当てた。  スマホのカウントダウンは見えない。でも、自分の鼓動が、この巨石の脈動と同期しているのがわかった。


「……嘉平さん。ありがとう」  佐藤は、村の老人の節くれだった手を握った。 「俺たち、まだ死ねません。この土地の本当の姿を、あいつらに見せてやるまでは」


「ああ、好きにするがいい」  嘉平は、優しく笑った。 「守り神はな、逃げる者を守るんじゃねえ。立ち上がる者に、力を貸すんだ」


 その夜、佐藤たちは電波のない暗闇の中で、かつてないほど深い眠りについた。  夢の中で、佐藤は見た。  春になり、雪が解け、このむつみの地が緑に覆われる姿を。  そして、自分たちの遺した「知恵」が、次の誰かの命を温める種火になる光景を。


 孤独を癒やすのは、デジタルの繋がりではない。  自分がどこから来て、どこへ還るのかを知る、土地との繋がりなのだ。


 吹雪はまだ止まない。  だが、岩の中に灯された五人の「命の火」は、もはや絶望に消されることはなかった。


「残り60日」。  彼らの戦いは、生存(サバイバル)から、この聖地を守るための聖戦(ジハード)へと変わりつつあった。


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