第2話:デジタルマネーと雪の牢獄

視界のすべてが、荒れ狂う白に塗りつぶされていた。  山口県萩市、むつみ地区。かつて「伏馬(ふしま)」と呼ばれたその地は、冬になれば容赦ない雪がすべてを拒絶する。 「はぁ、はぁ……っ……!」  佐藤は、倒壊しかけた納屋の軒下にうずくまっていた。肺の奥まで凍りつくような冷気が、呼吸のたびに喉を突き刺す。指先の感覚はとうに消え、今は自分の手さえも、どこか遠い場所にある異物のように感じられた。


 ふと、懐のスマートフォンが震えた。  画面を覗き込むと、無機質な通知が表示されている。 『生活保護費、150,000円が入金されました。お近くの提携店舗でご利用ください』 「……冗談じゃねえぞ。店舗なんて、どこにあるってんだよ」  佐藤は枯れ木のような声を振り絞った。画面に映る六桁の数字は、この極寒の中では一円の価値もない数字の羅列に過ぎない。このスマホで、雪は溶かせない。腹は膨れない。  ただ、死へのカウントダウンだけが、青白く、残酷に発光していた。


「おい、あんた。生きてるか」  吹雪の唸り声を切り裂いて、野太い声が届いた。  幻聴かと思った。だが、雪を漕ぐ重い足音が近づき、佐藤の肩を乱暴に掴み上げる。 「……っ!」 「死にてえなら、もっと楽な場所を選べ。ここで凍えると、指からポロポロ落ちるぞ」  現れたのは、熊のような体格をした老人だった。佐藤より少し年上だろうか。ボロボロの防寒着に、頭には手ぬぐいを巻き、その上から雪が積もっている。 「あんた、は……?」 「田中だ。元・建築屋だよ。あんたも『0番ホーム』組だろ。立て、俺の『城』へ運んでやる」


 田中に肩を貸され、たどり着いたのは、半分が雪に埋まった古い木造の民家だった。  家の中は、外よりはマシという程度でしかない。隙間風がヒュウヒュウと鳴り、床板は腐りかけている。 「……火は、ないのか」  佐藤が震えながら問うと、田中は忌々しそうに、自分が持っている専用スマホを床に投げ出した。 「火どころか、マッチ一本ねえ。ここは、東京都に捨てられた『ゴミ捨て場』なんだよ。あいつら、俺たちがこの家を見て絶望して、すぐ死ぬのを待ってるんだ。片付けの手間が省けるからな」 「そんな……殺生な……」 「殺生? いいや、これは『効率化』だそうだ。あの黒木って野郎が言ってたぜ。……だがな、俺は江戸っ子だ。あんなスカした役人の計算通りにくたばってやるもんか」


 田中はスマホを拾い上げると、画面を高速でスワイプし始めた。 「おい、あんた。そのスマホを出せ」 「えっ、何をするんだ」 「『特別受給者専用アプリ』の裏メニューだ。よく見ろ、ここにある『緊急物資要請』ってアイコンを。本来は都職員が使うもんだが、俺がさっき、強制アクセス(ハック)の方法を見つけた」  佐藤は呆気に取られた。建築職人が、なぜこんな最新技術を。 「……建築現場も、最近はドローンとタブレットだらけだったからな。嫌でも覚えたよ。いいか、あんたの15万と俺の15万、合わせて30万。これで『燃料』を注文する」


 田中の指が、血色の悪い画面を叩く。 「メニューにあるのは……『キャンプ用ガソリン』、それに『自動点火式ストーブ』か。高いな、おい。東京価格の三倍だ」 「背に腹は代えられない。頼む、やってくれ。死ぬよりはマシだ」  二人の指が画面上の「決済」ボタンに重なる。  ピポ、という軽薄な電子音が室内に響いた。  画面には『注文確定。ドローン配送を開始します。到着予想:15分』の文字。


「……本当に、こんな山奥に届くのか?」  佐藤は信じられなかった。窓の外は、一寸先も見えない猛吹雪だ。 「来るさ。都庁の連中は、俺たちの死を監視するために、この地区の上空に二十四時間ドローンを飛ばしてやがる。皮肉なもんだ。俺たちの監視用ドローンが、俺たちを生かすための運び屋になるんだからよ」


 二人は、凍える体を寄せ合いながら、暗闇の中で待った。  五分。十分。  心臓の鼓動が、雪の音に紛れて聞こえなくなるほど寒さが極まった時。  ――ブゥゥゥゥゥン。  空気を切り裂く、不自然な機械音が近づいてきた。 「来た……!」  佐藤は這いずるようにして窓へ向かった。  吹雪のカーテンを割り、赤と緑のLEDを点滅させた黒い物体が、庭の雪原へ降下してくる。ドローンは積載していた銀色のコンテナを切り離すと、挨拶もなしに再び空へと消えていった。


 田中が雪の中に飛び出し、コンテナを回収してきた。  中には、小型のジェットヒーターと、数缶のガソリン、そして「東京都」のロゴが入ったアルミ製の非常食が入っていた。 「よし、これだ。……死ぬなよ、佐藤。ここからが逆襲だ」  田中がヒーターのスイッチを入れる。  パチ、という音のあと、青白い炎が走り、次の瞬間、猛烈な熱風が吹き出した。


「……っ、あぁ……」  熱い。  冷え切った皮膚が、急激な熱に晒されて悲鳴を上げる。針で刺されたような激痛。だが、その痛みが、自分がまだ生きていることを証明していた。  鼻の奥がツンとし、佐藤の目から涙がこぼれた。それは頬を伝う前に蒸発し、小さな湯気を立てた。 「あったかい……生きてる、俺……」 「泣くな。燃料がもったいない。……見ろよ、この非常食。クラッカーと乾肉だ。30万円のディナーにしちゃあ、安っぽいな」  田中は笑いながら、カチカチの乾肉を口に放り込んだ。佐藤もそれに続く。噛みしめるたびに、塩気と肉の脂が、枯れ果てた体に染み渡っていく。


「田中さん。これ、15分で届いたってことは……」  佐藤がヒーターの熱に顔を赤くしながら言った。 「あぁ。都庁のシステムは、俺たちが『金を使って生き延びる』ことを想定してやがる。だが、それを提供するのは、あくまで商売としてだ。俺たちが金を使い果たし、無一文になった時が、本当の『予定日』ってわけだ」 「使い果たすまで、死なせないってことか。残酷な話だ」 「だがな、佐藤。逆を言えば、システムをハックし続けて、金さえ回せば、俺たちはこの雪の牢獄を『別荘』に変えられるってことだ」


 佐藤は、手の中のスマホを見つめた。  画面には、依然として『残り99日』と表示されている。  しかし、その数字を見る佐藤の心境は、数時間前とは全く違っていた。  絶望に塗りつぶされていた視界に、小さな、だが確かな「怒り」という火が灯っていた。


「田中さん。俺、清掃員だったから、建物の裏側とか、汚れを落とす方法は詳しいんだ」 「ほう。じゃあ、この腐りかけた家を掃除して、少しはマシな寝床にするか」 「あぁ。やってやろうじゃないか。あの黒木って男が、驚いて腰を抜かすくらいに」


 外では、むつみの山を飲み込まんとする吹雪が、獣のような咆哮を上げ続けている。  しかし、廃屋の中では、30万円の燃料が燃え盛る熱風が、二人の老人の魂を温め始めていた。  東京都孤独死予定者。  その肩書きを、彼らは雪の中に捨て去ろうとしていた。


 デジタルマネーという名の「命の粉」を燃料に変えて、孤独な戦士たちは、雪の牢獄で初めての眠りについた。


 ――第3話へ続く。


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