『むつみ異界の生存権 〜東京都・孤独死予定者移送計画〜』
春秋花壇
第1話:0番ホームからの強制転送
「……本日、午前十一時三分。対象者、佐藤。移送を開始します」
無機質な女性の合成音声が、コンクリートの冷たい空間に反響した。
東京都庁第一本庁舎、地下四階。一般の立ち入りが厳重に制限されたその場所には、線路のない「0番ホーム」が存在する。 佐藤(68歳)は、使い古されたパイプ椅子に座らされていた。背中を丸め、膝の上に置いた節くれだった自分の手を見つめる。視界の端で、白衣を着た若い職員たちがタブレットを操作し、忙しなく動いているのが見えた。
「佐藤さん、聞いていますか。これは『東京都孤独死未然防止プログラム』に基づく、特別な措置です。あなたは孤独死確率96%と判定されました。このまま新宿のワンルームマンションで腐敗し、発見が遅れることは、都の公衆衛生上の損失であり、経済的コストも甚大です。わかりますね?」
眼鏡をかけた痩身の男――黒木という名の担当官が、冷淡な口調でまくしたてた。
「わかって……ますよ。私がいなくなれば、あの部屋も次の人に貸せる。そういうことでしょう」
佐藤の声は、枯れ葉がこすれ合うような音だった。一週間、誰とも口を利いていなかった喉が痛む。 一ヶ月前、勤めていた清掃会社を膝の悪化で辞めてから、佐藤の「社会的な体温」は急速に失われていった。家族はとうにいない。友人も、携帯の電話帳に並ぶ名前はどれも「現在使われておりません」という無情なアナウンスを返すものばかりだ。
「ご理解いただけて光栄です。移送先は、あなたが静かに『その時』を迎えられる、自然豊かな場所を用意しました。生活保護費は、この専用端末に自動で振り込まれます。キャッシュレス、非接触、完全リモート。東京らしい、最先端の福祉ですよ」
黒木が差し出したのは、銀色に光る無機質なスマートフォンだった。受け取ると、掌に嫌な冷たさが伝わってきた。
「さあ、出発です。東京の発展に寄与してくださり、ありがとうございました。……さようなら」
「あ、あの……」
佐藤が何かを言いかけるより早く、頭上から凄まじい高周波の音が降り注いだ。 耳の奥がキーンと鳴り、視界が真っ白に染まる。全身の細胞が一度バラバラになり、真空の筒に吸い込まれるような、耐え難い浮遊感。 胃の底がせり上がり、吐き気と恐怖で叫ぼうとしたが、声すらも光の中に溶けて消えた。
――どれくらいの時間が経っただろうか。
「……っ、げほっ! げほっ!」
肺に飛び込んできたのは、東京の排気混じりの生暖かい空気ではなく、ナイフのように鋭く冷たい「氷の息吹」だった。 激しくむせ込みながら、佐藤は目を開けた。
「……え?」
視界を支配していたのは、圧倒的な「白」と「闇」だった。 地面は深い雪に覆われている。街灯など一つもない。あるのは、重く垂れ込めた雲から絶え間なく降り注ぐ雪の音と、防風林を揺らす不気味な風の鳴り声だけだ。
「なんだ、ここは……。新宿じゃないのか?」
立ち上がろうとして、足が膝まで雪に埋まった。あまりの冷たさに、骨の芯まで痺れる。 新宿の地下にいたはずの自分は、今、どこかの山の中に立っていた。周囲を見渡しても、ビルの明かりも、車の走行音も、酔客の怒鳴り声も聞こえない。ただ、森の奥から聞こえる「ミシミシ」という雪の重みに耐える木の悲鳴だけが、佐藤の鼓動に重なる。
「おい! 誰かいないのか! 黒木さん!」
叫んだ声は、深々と積もった雪に吸い込まれ、一瞬で消えた。 震える手で、ポケットに入っていた「専用スマホ」を取り出す。液晶画面が青白く光り、佐藤の顔を不気味に照らし出した。
画面には、大きな文字でこう記されていた。
【現在地:山口県萩市 むつみ地区】 【所持残高:150,000円(生活保護費支給済み)】 【生存可能予測:残り100日】
「山口……? むつみ……? 100日って、なんだよ、これ」
絶望が、背筋を這い上がってくる。 支給された金はある。だが、この氷点下の極寒の中、金を持っていても買うものがない。自動販売機どころか、道すら見えない。 佐藤が着ているのは、ユニクロの薄いダウンジャケットとスラックスだけだ。急速に体温が奪われていくのがわかる。指先はすでに感覚を失い、自分の指ではない、硬い棒がついているような違和感がある。
「ふざけるな……。これが福祉か。ただの、姥捨てじゃないか……!」
雪の上に座り込みそうになったその時、スマートフォンの通知音が鳴り響いた。 暗闇の中で、その電子音はまるで断末魔の叫びのように聞こえた。
画面を開くと、マップ上に一つの小さな点が明滅している。 そこには**『給付対象者の生存維持ポイント:指定避難所(廃屋)』**と書かれていた。
「行かなきゃ……死ぬ。ここで、一人で、氷みたいになって……」
佐藤は、震える足で雪を蹴った。 一歩進むたびに、雪が靴の中に侵入し、体温を奪っていく。 鼻の奥がツンと痛み、涙が出てきたが、それさえも頬を伝う前に凍りそうだった。
東京にいた頃、彼は「いつ死んでもいい」と思っていた。 誰もいない部屋で、テレビの音を子守唄代わりに、眠るように消えていく。それが望みだったはずだ。 だが、この圧倒的な大自然の、暴力的なまでの「無」の中に放り出された今、佐藤の心の中にあったのは、醜いほどの「生」への執着だった。
「まだだ……。まだ、こんなところで……。腐る場所くらい、自分で選ばせろ……!」
暗闇の向こう、雪のカーテンを透かして、わずかに建物の影が見えた。 それは、今にも崩れそうな、古い木造の納屋だった。 佐藤は、這いずるようにしてその影を目指した。
手のひらで掴んだ雪の冷たさが、次第に熱く感じ始める。それは、体が凍死に向かう前の危険な兆候だった。 意識が遠のきかける中、佐藤は、都庁で黒木が浮かべた蔑むような笑みを思い出した。
(見てろ……。お前たちの計算通りには、死んでやらない……)
雪を掴む指に、力がこもる。 東京から捨てられた老人の、100日間の戦いが、この人跡未踏の雪原から始まろうとしていた。
画面に表示された「残り100日」のカウントが、静かに「99日23時間59分」へと刻まれた。
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