第5話 ホタルの夜

『物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれづるたまかとぞ見る』

                      (和泉式部)


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「風呂入ってきまーす」


 膨れた腹が落ち着くと、ビビはそう言って部屋を出ていった。磨き上げられた廊下を、ぱたぱたと素足の音が遠ざかる。


やがて湯をくむ音と、薪がはぜるような音がした。お風呂――、薪で沸かしてるんだな。川のせせらぎと、虫の声。夜風が縁側を抜けて、畳の上を静かに滑っていく。


 ゴロリ、寝転ぶ。あぁ、涼しい――。都会の蒸し暑さが嘘みたいだ。腹も満たされ、眠気がじんわりと襲ってくる。けれど、どうしても頭から離れない言葉がある。


「この事件、もう解決してるんですよ。ただ、誰も“そうだ”って気づいてないだけです」


ビビの言葉。あいつ――、いったい何を考えているのか。その疑問は、疲れと、眠気とともにどこかへ消えて行った。しかし、心地よい眠りは、長く続かなかった。


「ヨコゾーっ!」


跳ね起きた。眠気も吹き飛ぶ、ビビの叫び声。


「庭に人がいました。覗きかも!」


身体にバスタオルを巻いたビビが、飛び出してきた。庭に不審者がいたというのに、怖がるどころか満面の笑みだ。


「え、お前を覗く物好きがいるのか?」

「いるでしょー、だって私、美少女ですもの」

「自分で言うなよ」

「とにかく。いたんですよ、外に! ホタルを身体に纏って――まるで、真珠郎みたいでした!」

「誰だよ」

「読んでないんですか?苗字が横溝なのに?作家志望なのに?横溝正史、知らないんですか?」

「あのな、もう一回言うぞ。誰なんだよ」


ビビのアーモンド形の大きな目が、きらきらと光っていた。なんでなんだ?恐怖なんて微塵もない。むしろ不審者の登場を喜んでいる。


「ヨコゾー。本当にいたんです。ホタルの中に――人影が立ってたんです」


見間違いや、嘘ではなさそうだ。俺は、縁側から外へ飛び出した。


田舎の夜の闇は、“本当の闇”だ。民家も近くにない、街灯もない。月も雲に隠れ、足元すらおぼつかない。それでも目を凝らすと、広い庭の奥――木のまわりが淡く光っていた。


ホタルだった。無数の光が、ゆらゆらと漂っている。その光が風に揺れるたび、人の形にも、影のようにも見える。


「……誰か、いるのか?」


思わず声が裏返る。返事はない。代わりに、ホタルがふっと散っていった。幻想的な風景に、俺はしばらく立ち尽くしていた。


「いませんかー!」


急に、背後からビビが大声を張り上げた。その声でホタルが一斉に散り、あたりの闇が濃くなる。


「おい、びっくりするだろ……」


振り返ると、ジャージに着替えたビビが縁側から身を乗り出していた。そのとき、眩い光に視界が霞む。それは、懐中電灯を持った宿主だった。


「どうかしましたか?」

「いや、庭に人が……」

「人?」


宿主は木の方をちらりと見やり、たいして驚いた様子もなく静かに笑った。


「野生の動物かなんかやろ? 誰もおらんですよ。疲れとんなっど? ゆっくり休んでください」


そう言って、何事もなかったかのように引き返していく。闇の中、点在するホタルの光だけがまだちらちらと瞬いていた。まるで、さっきの“人影の名残”のように。


「おかしいなぁ。絶対いました。私、視力2.0なので」

「けど、真っ暗だっただろ」

「でもいましたし、ここの宿の関係者です」

「なんで、そう思う?」


ビビは、得意げに顎を上げた。


「だって、バッカスほどの賢い犬が、不審者の気配や匂いに気づかないはずがありません。吠えもしなかったってことは――“知ってる相手”ですよ」

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