第3話 民宿「たけだ」

『人生の苦しみから逃れる手段は二つある、音楽と猫だ』

                   (アルベルト・シュバイツァー)


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 エメラルドグリーンの美しい川辺川かわべがわが、山肌を縫うように流れている。川沿いに車一台がやっと通れる細い山道があり、ひたすら上へ上へと登っていく。そして谷あいに見えてきたのは、わずか数十軒の民家が肩を寄せ合う、小さな村落だった。


ここまで来ると、カーナビも怪しい。道を間違えても、修正ルートが出ない。


「ナビより私の方向感覚を信じてください」

「いいから、スマホでGoogleマップを見てくれよ」

「あ!圏外です!」


最悪だ。誰かに出会えば、道を聞けるものを……。


「ヨコゾー、フォースを信じましょう!きっと辿り着けます」


そんなやり取りをしているうちに、山の影が濃くなってきた。


「やばいな。真っ暗になったら、余計に道が分からないぞ。早く民宿に辿り着かないと!」

「ヨコゾー、大丈夫です。フォースです、フォース!」


俺の悲痛な叫びが天に届いたのか、まだらな民家が全くなくなり、鬱蒼とした木々の隙間に看板がひとつ――《民宿たけだ》の文字が見えた。


「よかったー!やっと着いた」


横浜から二十時間。ようやく目的地に辿り着いた。


エンジンを切ると、蝉の声と水音だけが残った。“川のそばにある村”というより、“川に守られた村”という印象。真夏だというのに、頬を撫でる風は爽やかで心地いい。


 「たけだ」は、村で唯一の民宿だった。看板の字は手書きで、半分ほど色が剥げている。玄関をくぐると、独特な獣の匂いがした。壁には鹿の角がいくつも掛けられ、天井は高く、太い梁がむき出しになっている。梁の隙間から漏れる光で、囲炉裏から立ち上る細い埃が舞っていた。


 室内は、エアコンもないのになぜか涼しい。滲んだ汗が、すっと引くのを感じた。縁側では、一匹の巨大な黒猫がのびのび寝そべっている。その尻尾だけが、俺たちを歓迎するように、ゆっくり揺れていた。


「ね、ね、猫です!猫ですよヨコゾー!」

「騒ぐな、騒ぐな、テンション上げんな」

「黒猫ですよ!でっか!名前なんだろう?私が、つけていいですか!」

「ここ民宿だぞ。勝手に飼い猫の名づけすんな」

「もう決めました。ロデムです」

「出たな昭和アニメファン。うざ」

「うざ、は禁句です」


すると、奥から慌てた足音が近づいてきた。


「ようこそ、遠かとこからようなったですね。疲れなったでしょ?」


日に焼け引き締まった頬の、白髪の老人。


「宿主の竹田六兵衛です」


柔らかく温かい方言で話すが、それとは対照的に目つきは鋭い。俺たちの“目的”が、一瞬で見透かされたような気がした。


すると、ビビが勢いよく前に出た。


「猫の名前はなんですか?」

「あいつはロデムだ」

「なんと!おじいさん、気が合いますね!」


嘘だろ、まさかの合致。興奮したビビが、宿主の両腕を掴んで激しく揺さぶる。


「おいビビ、やめろって。すみません。こいつ、おかしいんです」


俺はこれから迷惑をかける分もふくめ、深々と頭を下げた。


「よかよか。賑やかなのは久しぶりたい」


宿主は笑って手を振った。笑うと、先ほど感じた殺気が和らいだ。


そのとき、土間のほうから甘い鼻鳴きが聞こえた。見ると、犬がこちらをじっと見ている。中型の雑種――只者、いや、只犬ではない感を漂わせた犬だ。身体中に大小さまざまな古傷があり、連戦の猛者感があるが、愛らしい目をしていて、何よりとても人懐っこい。尻尾を振りながら、ビビに身体をこすりつけている。


「ああ、こいつはバッカス。わしの猟犬ばい」

「名前、かっこいいですね」


何か閃いた様子で、ビビが身を乗り出す。


「もしかして、ギリシャ神話からですか!」


ビビは神々の残酷な内輪もめ――つまりギリシャ神話が大好きだ。殺し合いと恋愛が紙一重なあの世界を、矮小化して恋バナのように語るタイプである。


「違う、違う。こいつが生まれたとき、ちょうどテレビで『ロッキー』が放送されとったとたい」

「ロッキー1ですね!」

「そうそう、あんた若かとに、ロッキー知っととね」


宿主はうれしそうに目を細めた。その笑顔には、今までの厳しい人生が刻まれた深い皺がある。


「ヨコゾー、ロッキー1が“ラブロマンス”の棚にあるレンタルDVD屋さんは、信用できます。覚えといてください」

「うっせー、時代はサブスクだろうが」



するとビビが、今度は俺の耳に口を寄せてて囁いた。



「因みにバッカスは、スタローンの愛犬で、貧しい時に売って、余裕が出てきて買い戻したんですよ」

「なんでコソコソ話なんだよ」

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