第19話 引き受けるということ

夜は、思ったより静かだった。


騒ぎも、通知も、

全部、遠くにあるみたいで。


万次郎は、自分の部屋で鞄を開いていた。


中身は少ない。

財布、スマホ、充電器。

それだけ。


――逃げる準備みたいだな。


「……違うけど」


独り言が、やけに響く。


ノック。


「万次郎」

母の声だ。


「開いてる」


障子が静かに開く。

母は、何も持っていなかった。


「出るの?」

「うん」


理由は聞かれない。

聞かない人だ。


「帰ってくる?」

少しだけ、間を置いて。


「……帰るつもりではいる」

「そう」


母は、それ以上何も言わなかった。


代わりに、

万次郎の前に座る。


「正しさってね」

母は、いつもの調子で言う。

「自分が正しいと思ってる時が、一番、危ないの」


「知ってる」

「知ってる顔ね」


小さく笑う。


「でも」

母は続けた。

「それを止めに行く人も、同じくらい危ない」


万次郎は、視線を落とした。


「……うん」


「だから」

母は立ち上がる。

「壊れないでね」


それだけ。


願いでも、命令でもない。

ただの、祈り。


母は、静かに出ていった。


廊下に出ると、

親父が柱にもたれていた。


腕を組んで、

いつもより背中が大きい。


「行くのか」

「行く」


「止めねぇぞ」

「知ってる」


「止めたら」

親父は言う。

「お前じゃなくなる」


万次郎は、苦笑した。


「親父さ」

「ん」

「俺、神様向いてねぇよ」


「知ってる」

即答。

「俺の息子だからな」


「向いてねぇから」

親父は続けた。

「人間のまま、やれ」


それが、

一番難しい注文だった。


廊下の曲がり角で、

一郎が壁にもたれて立っていた。


スマホをいじっている。

いつもの、どうでもよさそうな顔。


「……出るんだ」

「ああ」


一郎は画面から目を離さない。


「今日さ」

「ん」

「俺、二人に振られた」


「通常運転だな」

「ひどくない?」


一拍。


「でもさ」

一郎はようやく顔を上げる。

「三人目には言われた」


嫌な予感。


「『あんたは、いい人だけど逃げるよね』って」


万次郎は、足を止めた。


「……で?」

「図星すぎて笑った」


一郎は、肩をすくめる。


「俺さ」

「多分、逃げるの得意なんだよ」

「軽くして、笑って、誤魔化して」


「知ってる」

「だろ」


一郎は、万次郎を見る。


珍しく、

ナルシストでもポンコツでもない目。


「だからさ」

「お前が行くの、止めねぇ」


「……」

「止めたら」

「俺が一番、嫌いな大人になる」


万次郎は、息を吐いた。


「兄貴」

「ん?」

「相変わらず、顔だけはいいな」


一郎は笑った。


「だろ?」

「顔だけは」


一歩、近づく。


「でもな」

一郎は、軽い調子に戻る。

「死ぬなよ」


「約束はできねぇ」

「知ってる」


それでも、一郎は言った。


「生きて帰ってこい」

「そしたら俺」

「ちゃんと逃げない兄貴になるから」


……ずるい。


万次郎は、視線を逸らした。


「……期待すんな」

「期待してる」


軽口なのに、

一番重い言葉。


一郎は、ひらひらと手を振った。


「行ってこい、万次郎」

「世界救うとか、そういうのはどうでもいいから」


「……」

「ちゃんと」

「卍万次郎として帰ってこい」


玄関で靴を履いていると、

足音がひとつ。


「お兄ちゃん!」


小雪が、駆け寄ってくる。


「どこ行くの?」

「ちょっとな」


「危ない?」

「まあ」


「……やだ」

小雪は、万次郎の袖を掴む。

「行かないで」


万次郎は、少し迷ってから、

小雪の頭に手を置いた。


「俺さ」

「うん」

「戻ってきたら、またうるさいぞ」


「いい!」

即答。

「うるさいのがいい!」


「……だろ」


小雪は、ぐっと唇を噛んでから言った。


「お兄ちゃんが」

「お兄ちゃんでいるなら」

「それでいい」


万次郎は、

何も言えなくなった。


だから、

軽く頭を撫でて、

手を離した。


外に出ると、

レンが待っていた。


包帯は取れているが、

痣はまだ残っている。


「行くんだな」

「行く」


「止めない」

「止められても困る」


「だよな」


二人で歩き出す。


街は、まだ起きている。

光も、音も、

全部が過剰だ。


「なあ」

レンが言う。

「お前さ」


「ん」

「怖い?」


少し考えてから、

万次郎は答えた。


「怖ぇよ」

「めちゃくちゃ」


「でも」

「それでも?」


「それでも」

万次郎は前を見たまま言う。

「俺が行かないと」

「誰かが、もっと壊れる」


レンは、足を止めた。


「……じゃあ」

「生きて帰ってこい」


「努力はする」


それが、

精一杯の約束だった。


屋上。


街を見下ろす場所。


光が、歪んで見える。

怒りと、正義と、恐怖が、

混ざり合っている。


――全部、人間だ。


万次郎は、深く息を吸った。


逃げたい。

やめたい。

関係ないふりをしたい。


でも。


「……結局さ」


小さく呟く。


「見えちまったら」

「引き受けるしかねぇんだよな」


それが、

卍万次郎という人間の歪み。


異能じゃない。

才能でもない。


ただの、性分。


「……行くぞ」


万次郎は、一歩、踏み出した。


神様になるためじゃない。

英雄になるためでもない。


ただ、

これ以上、人が壊れないように。


人柱は、

自分が救われることを

前提にしない。


それでも、

歩く。


その背中を、

夜の街が、静かに飲み込んでいった。

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