第8話 正しさは、人を壊す
異変は、音もなく始まった。
朝のホームルーム。
出欠確認。
連絡事項。
いつも通り。
違うのは、
教室の端の席が一つ、空いていること。
昨日、注意されていた生徒――
名前は誰も口にしない。
「……休み?」
誰かが小声で言った。
担任は名簿を見て、短く答える。
「体調不良だ。今日は欠席」
それ以上はない。
質問も、説明も。
“なかったこと”にするには、十分だ。
レンが、隣で小さく息を吐いた。
「来ねぇな」
「来ないだろ」
俺は窓の外を見る。
曇り空。
光が弱い。
――嫌な予感は、いつも当たる。
昼休み。
生徒会男子が、廊下で数人に囲まれていた。
中心に立ち、静かな声で話している。
「昨日の対応、正しかったよね」
「うん、先生も褒めてた」
「学校、落ち着いたし」
落ち着いた。
その言葉に、誰も疑問を持たない。
「一人が我慢すれば、みんなが安心できる」
生徒会男子は、はっきりと言った。
「それって、正しいでしょ?」
周囲が頷く。
“犠牲”という言葉は、
正しさに包まれると、見えなくなる。
その日の午後。
五時間目の途中、
突然、放送が入った。
『――保健室より連絡です。
〇年〇組の生徒、至急担任の先生は来てください』
教室が、ざわつく。
担任が顔色を変えて出ていく。
数分後、
廊下が騒がしくなった。
誰かが走る音。
誰かが泣く声。
「……何かあった?」
「分かんない」
俺は、立ち上がらなかった。
立ち上がれなかった。
――分かってしまったから。
授業は中断。
そのまま、早めの下校。
校内には、
「静かに帰宅してください」
という、やけに丁寧な指示が流れた。
レンと並んで、校門へ向かう。
途中、保健室の前を通った。
扉は閉まっている。
でも、内側の気配が――重い。
誰かが、
中で、泣いている。
泣いて、謝って、
何度も、何度も。
「……私が悪いんです」
「ルール、守れなかったから」
「迷惑、かけたから」
その声は、
“誰かに言わされている”声だった。
正しさが、
本人の口を借りて、
本人を切っている。
俺は、足を止めた。
レンが、俺の袖を掴む。
「……行くな」
「……」
行ったところで、
俺にできることはない。
止めたら、
「規則違反を擁護した」
「感情的になった」
「冷静さを欠いた」
そう処理される。
正しさは、
常に逃げ道を用意している。
校門を出ると、
生徒会男子が立っていた。
顔色が、少し悪い。
「……大変なことになったね」
俺に言う。
「……ああ」
「でも」
“でも”。
「未然に防げた部分もあったと思う」
彼は真剣な顔で言う。
「だから、今後はもっと徹底しよう」
徹底。
「再発防止だ」
「もう、同じことは起こさせない」
その言葉に、
悪意は一切ない。
むしろ、
使命感しかない。
俺の胸の奥が、
ぎし、と音を立てた。
「……卍くん」
彼は続ける。
「君が協力してくれれば――」
「やめろ」
声が出た。
自分でも驚くほど、低い声。
生徒会男子が、言葉を止める。
周囲の空気が、凍る。
「……それ以上、言うな」
俺は、彼を見た。
責める目じゃない。
怒りでもない。
ただ――
限界の目だった。
「正しさで、人が壊れた」
俺は、淡々と言った。
「それだけだ」
生徒会男子は、言葉を失った。
「……でも」
「でも、じゃねぇ」
切った。
初めて、はっきりと。
「守ったつもりで、追い詰めただけだ」
「それを“正しい”って呼ぶなら」
「俺は、もう協力しない」
沈黙。
誰も、助け舟を出さない。
正しさは、
今、揺れた。
レンが、俺の隣に立つ。
「……俺もだ」
たったそれだけ。
でも、十分だった。
生徒会男子は、
何か言おうとして、
結局、何も言えなかった。
その夜。
万次郎は、一人、部屋で天井を見ていた。
胸の奥に、
吸い込みきれなかったものが、
澱のように溜まっている。
正しさ。
善意。
使命感。
そして、壊れた心。
――全部、人間のものだ。
「……遅かったな」
小さく呟く。
気づくのが、
止めるのが。
でも。
ここからだ。
正しさは、
一度人を壊すと、
もう“無害”には戻らない。
次は、
誰が刃を持つのか。
俺は、
それを引き受ける覚悟を、
静かに固めていた。
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