第6話 いない場所で起きること

その日は、珍しく何も起きなかった。


朝の通学路も、

校門の張り紙も、

風紀委員の立ち位置も、

昨日と同じ。


――万次郎が、そこにいないことを除けば。


「今日、卍くん休み?」


ホームルームで、誰かがそう言った。


「え、マジ?」

「珍しくない?」

「体調不良じゃない?」


担任は名簿を見てから、淡々と言う。


「卍万次郎は欠席だ。連絡は来ている」


理由は言わない。

誰も深く聞かない。


だが、空気は確実に変わった。


教室のどこかが、ぽっかりと空く。

物理的じゃない。

“役割”が抜け落ちた感じ。


レンは、万次郎の席を一度だけ見て、

何も言わず前を向いた。


「……今日は静かだね」


隣の席の女子が、そう言った。


「そう?」

別の誰かが首を傾げる。

「なんか、落ち着かない」


昼休み。


例の生徒会男子が、いつもより目立っていた。

腕章をつけ、廊下を歩き、声をかける。


「ちょっといい?」

「今、寄り道は禁止って知ってるよね?」

「みんなのためだから」


いつもなら、ここで一度ブレーキがかかる。


――卍万次郎が、近くにいる。


あいつがいるだけで、

正しさは少しだけ抑制されていた。


今日は、いない。


「だからさ」

生徒会男子の声が少し強くなる。

「分かってくれるよね?」


相手は、昨日注意されていた女子だった。


「私……部活の――」

「言い訳はいい」


ぴしゃり。


周囲が、固まる。


「ルールはルールだよ」

「例外を作ると、秩序が壊れる」


秩序。

まただ。


女子は何も言えなくなった。

目が、揺れている。


誰かが止めるべきだった。

でも、誰も動かない。


――止め役が、いない。


放課後。


校内で小さな騒ぎが起きた。


「ねえ、聞いた?」

「理科室で……」

「泣いてたって」


例の女子が、

理科準備室で一人、しゃがみ込んでいたらしい。


先生が見つけた時、

彼女は何度も同じ言葉を繰り返していた。


「私が悪いんです」

「守れなかったから」

「迷惑かけたから」


誰も殴っていない。

誰も怒鳴っていない。


正しさだけが、

彼女をそこまで追い詰めた。


その話を聞いた時、

レンは初めて、顔を歪めた。


「……あいつがいりゃ」


言いかけて、止める。


いないものを、

責めても仕方がない。


その日の夕方。


校門前で、生徒会男子が言った。


「今日は、大きな問題もなくてよかったね」

「みんな、協力してくれたおかげだ」


周囲が頷く。


――成功体験。


正しさは、

結果が出ると、加速する。


その頃。


万次郎は、

学校から少し離れた場所で、

胸の奥に刺さるような違和感を感じていた。


理由は分からない。

だが、分かる。


「あー……」


小さく、息を吐く。


「……やっちまったな」


誰にでもなく、そう呟く。


万次郎がいない場所で、

世界はちゃんと回った。


正しく。

秩序立って。

何も問題がないように。


ただ一つ、

誰かが壊れたことを除けば。


その夜、

万次郎は眠れなかった。


何もしていない。

それなのに。


――していないからこそ。


「……次は、来るな」


確信だけが、

静かに腹の底に落ちていた。

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