02

 周囲を見渡しても、枯れた木の間にはクリスがここまで歩いてきた足跡しか残っていない。


 その足跡が来た方向。


 わずかに丘になっていた雪の向こうから飛び出してきたのは、五頭のオオカミだった。


 いずれもシミひとつない真っ白な毛で、胸元の黒い革製ハーネスが目立っていなければ、スバルはもう一度死と向き合うはめになっていただろう。


 ハーネスはオオカミの後方、空のソリにつながっているらしい。軽すぎるせいで、木製ソリは丘の頂点で一度宙に浮いていた。


 そのソリがスバルに近付く位置で、オオカミたちは足を止める。そばで見てみればイヌだった、などということはなく、一頭一頭がヒト程度は組み伏せられそうな肉食獣だ。


「ありがとう、イーヴァ」


 クリスが声をかけると、先頭のオオカミが片耳を揺らして応える。


 怯える人間など格好の獲物だろうに、スバルを気に留める様子もない。目線を合わせようとしない顔の動きは、もしかするとオオカミなりに敵意がないことを表しているのかもしれなかった。


 たじろいだスバルを気にもとめず、クリスは坦々と告げる。


「移動しよう。この気候は君の生存に適さない」


 スバルにも、異論はない。


 とはいえ。


「どこに?」


「近くに町がある」


 答えは短い。それ以上の説明もない。


 スバルからすれば、にわかには信じがたいことだった。確かにクリスの装備や荷物は長距離を移動するには簡素で、オオカミたちが指示もなく誰かを迎えに行ける距離もそう長くはないだろう。


 それでも、雪と枯れ木の風景は「町」という言葉にあまりにもそぐわなかった。


 半信半疑のスバルを急かすように、クリスの言葉が続く。


「乗ってくれ。すぐに着く」


 どの道、生きるにはそうするしかない。


 意を決して、スバルは短く息を吐いた。


 クリスの補助はあったものの、スバルがソリに乗り込むには時間を要した。慣れない雪の上、体に合わない間に合わせの防寒着、乗ったことのないソリに加えて、生身で対面するには危険すぎる獣までいれば、無理もないことだった。


 総じて、スバルには経験のないことばかりである。それでもクリスの誘導に抵抗心を抱けないのは、悪意や害意を感じないからだろうか。


 善悪以前に、一切の感情が感じとれないことは別として。


 どうにか収まった席の座面は、持て余すほど広かった。少なくとも、小柄なクリスが常用しているものではないのだろう。腰を固定するシートベルトも比例して大振りで、ずしりと重い。


 想定されている乗客は、どんな体格なのだろうか。


 思考するスバルの前で、ゴーグルが揺れる。


「必要ならつけるといい」


 クリスの声は、頭上から降ってきた。


 受け取ると、やはりプラスチック製品が使われていないだけ重く感じる。特にガラス部分は顕著で、長時間の着用は難しそうな代物だった。


 ないよりは、よほどいい。ソリの前面は無防備で、オオカミたちが蹴散らすだろう雪を防ぐものはない。


 スバルがゴーグルを着ける間に、クリスがソリの後部へ足をかけたらしい木材の軋みが背中に響く。それだけを合図にして、五頭のオオカミは一斉に歩を進める。


 どうやら元来た道を戻るらしく、大きく弧を描いてソリは進む。動きは思っていたよりも滑らかで、まっさらな雪面では揺れもない。


「口を閉じて、顎に力を入れておくことを推奨する」


 クリスの言葉を聞いたとき、スバルは丁度ゴーグルの余ったベルトを適当に挟んだところだった。とっさにソリの手すりを掴む。


 クリスの言葉に応える間もない、という直感は正しかった。


 腹の底を押されるような圧がかかる。


 オオカミが蹴った雪のかけらが上着の肩で弾けた。


 冷たい空気が更に鋭さを増し、スバルは防寒着の襟に口元を埋めた。オオカミの足音やソリが雪上を滑る音は、すぐに風にかき消される。


 ほとんど白飛びする景色の中、枯れ木の影が後方へ駆け抜けていくのがかろうじて見える。低い視界では細い幹も天にそびえるようで、スバルの本来の視線で見るよりも存在感があった。


 その木々の影が、消える。


 開けた視界は、空の薄青と雪の白ばかりになった。遠景には山すらない。雪との境界も曖昧に、風雪から町を守る石壁が遠くに見える。


 思えば、スバルが地平線を見たのはこれが初めてだ。故郷では、空でさえ建物や山に遮られていてここまで広くはない。


 いよいよ景色は変わり映えしない──ように見えた。


「対処する。イーヴァ、そのまま走って」


 クリスの声は風の中でよく通った。


 ほぼ同時、視界が暗くなる。


 なにかが太陽の光を遮ったとスバルが気付くのに、時間がかかった。見上げた視界でこちらを向いているのが、猛禽の足であることにも。


 引き伸ばされた時間の中で、その猛禽と目が合ったような気さえしたのも束の間。


 暖かい空気と共に、地面から白煙が立ちのぼった。


 落下速度を落とすために広げていた翼が、上昇気流を正面から掴んでしまったらしい。獲物を捕らえる猛禽の体勢は崩れ、爪がスバルの視界から外れる。


 体感。時の流れは元に戻る。


 速度を緩めることなく、五頭のオオカミとソリは白煙を突き抜けた。


 風にかき消されそうな距離で、「もう一度だ」と甲高い声がスバルに届く。制御を取り戻したらしい猛禽が、並走するような低空飛行でソリを追ってくる。


 羽ばたきと共に風を掴んで上昇する「それ」は、しかしスバルの知る「鳥」ではない。頭部だけが白い羽毛で覆われているハクトウワシの特徴はあれど、下半身の骨格が異常に発達している。


「止めにくるかも。注意して」


 風に紛れて聞こえてきたのは、女の声だった。


 上昇した鳥人が、足を振るのが見える。その動作でなにかを投げたらしく、小さな影が前方の雪面に刺さった。


 それが一枚の葉をつけた枝だと、認識する間もない。


 ソリの進行方向に、深緑の壁が現れようとしていた。太いツタが伸びては絡みあい、自身を柱として立ちあがる。赤黒いまだら模様に見えるのは、下向きに生えた薄い刃物のような棘。


 茨の壁だった。


 狼たちは、それでもなお速度を落とさない。


 クリスの指示は端的で平坦だった。


「目を閉じて」


 言うが早いか。


 茨へ向けて、目も眩むような閃光が走る。あまりに強い光で、咄嗟に閉じた瞼が上げられない。


 遅れて、熱波が正面から叩きつけられる。


 薄目で覗けば、茨の壁には大きく風穴が空いていた。炭化した残骸が散り、残った茨にも余波らしい炎がまとわりついている。


 当然、周囲の雪面も無事では済まなかった。茨に空いた穴のそばでは、薄く立ちのぼる煙の先に黒い土が見える。


「……やりすぎよ!」


 再び女の声がしたかと思えば、先頭の狼の足元から白く氷の道が伸びた。程なく、雪から氷へ乗りあげたソリが硬い感触をスバルに伝えてくる。


 茨の風穴を潜り抜けるのは一瞬。焦げた匂いすら置き去りに、視界はまた一面の雪原に戻る。


 氷の道から雪面に戻る際、ソリと共にわずかに浮いたスバルの体は、背後から肩に乗ったクリスの手で軽く抑えられた。


「これ以上、出力を落とせない」


 クリスの言葉に、女の声は応えない。


 代わりに、ソリをひく狼がわずかに速度を緩める。座席に押しつけられるような圧が弱まって、スバルはようやく息をついた。


 異常事態から一転、ソリの進行は穏やかだ。


 視線を空に向ければ、薄い色の中で、先ほどの襲撃者らしい鳥の影が揺れていた。閃光は当然のこと、壁に風穴を開けた熱量では上昇気流の強さも相当のものだっただろう。


 自分を襲ってきた相手であっても、スバルはその安否を気にせずにはいられなかった。少なくとも、今すぐ墜落しそうな状態ではないらしいことを見とめてから、視線を外す。


「ここから先は、なにも起きないはずだ」


「そうだといいんだが」


 クリスに返しはしたものの、スバルの声が風に負けずに届いたかは不明だった。


 太陽は天の真上。


 その太陽も、昨日まで頭上にあった恒星とは別物なのだろうと、スバルは薄く理解していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る