2
01
ぷつり。
なにかが切れるのを、暗闇の中で肌だけが感じとった。
*
あまりの眩しさに、何度か瞬きした。
スポットライトのような、強い光があったわけではない。
彼の身に起こったのは、映像作品で言う「カット」に近い。
一瞬の暗転もなく、自然とおこなわれる場面転換のような。
それが生身の人間に起こると、こうも脳を混乱させるものか。冷たい空気に触れた肌がぶるりと震えて、スバルは「これ」が現実であることを知る。
雪景色だった。
白い景色の中に、すべての葉を落として痩せ細った木がまばらに立っている。
真上から注ぐ日光が、余計な影すら落とさない。照り返しもあって、自然光のなかでは眩しい部類ではあるだろう。
それでも、真夏に比べれば弱々しい太陽だった。
スバルが視線を下ろせば、足元はすっかり雪に埋もれている。土に汚れたスニーカーは、確かに山中を歩いていた名残だろう。
ほんの一瞬前まで。
どことも知らない夜の山を、あてもなくさまよっていた。生きるつもりも、帰るつもりもなかった。なにかにつまずいて、足を踏み外して──
──雪原の上に、立っている。
急速に冷えた体が、大きく息を吐き出した。
白い空気の塊が、風にほどけた。
それすらも、白い視界の中では曖昧に見える。
現実味がない。それが、スバルの率直な感想だった。夢として認識した方が、まだ受け入れられる。
だから、というわけでもないが。
スバルが背後も見ずに雪面に倒れ込むのに、一切の躊躇はなかった。
空の色は、薄く遠い。
凍えた体が、呼気を震わせる。
どこもかしこも、白く明るい。その明度が、今は煩わしかった。
ほとんど眠るようなつもりで、まばたきを長くする。変化は、その三度目で起きた。
黒い人影だった。
音もなく、それはスバルを覗き込んでいた。
ちょうど天地が逆になって、スバルの頭上から見下ろすように。
人は驚くと声も出ないことを、スバルは初めて知った。吸い込んだ息を吐き出すことすら、ぎこちない。
白い視界に慣れた目が、逆光の中で詳細を確かめるには時間がかかった。
「命を捨てるにしても、方法を選んだ方がいい」
温度のない声だった。
言葉にともなって含まれるべき感情が、その声には欠落している。入力された言葉を音声として出力する自動音声が極限まで精度を高めたら、もしかするとこんな「発声」になるのかもしれない。
「そう言うあんたは、生きているのか?」
「少なくとも死んではいない」
即応。逆光に慣れた目でも、表情の変化すら判別できない。
いっそ、精巧なロボットだと言われた方が納得できる。しかし、影が吐く息も白く染まっていて、どうやらスバルと同じく呼吸をする生き物らしかった。
「君には知る権利がある」
「……なにを?」
「君になにが起きたか」
言い様、人影は体を起こしてスバルの視界から外れた。微かに雪を踏む音がして、頭の横を通り過ぎる。
スバルが投げ出した腕を跨ぐときだけ、足音はテンポを乱した。
「君がいまどこにいるのか。君はここでどのように生きるべきか」
矢継ぎ早に、平坦な声は続く。
再び人影がスバルの目に映ったとき、天地の向きは正常に戻っていた。とはいえ、倒れたスバルの隣で、上体と首の角度を合わせているにすぎなかったが。
「知った上で、俺が今と同じ選択をしたらどうするんだ?」
「死を選ぶことができるのは、生きているものだけだ」
息が、詰まる。
「であればその選択も、命あるものの権利だ」
その声は揺るがない。
その表情にも動きがない。
角度が変わっても、その瞳が光を返すこともない。
白ばかりがある、この雪原と同じだ。
生命の灯火が、そこにはない。
「……これが夢なら、我ながら悪趣味すぎる」
「君には異邦人特有の、軽度の錯乱が見られる。体温を下げすぎている可能性がある」
そう言って、影はスバルへ片手を差し出した。
防寒着を身に纏っているのに、その手だけは肌が剥き出しだった。
太陽光が当たって、影の手は本来の色を──白を取り戻していた。皮膚の下に血が通っていることを想像できない、それこそ雪のような白。
スバルはわずかにためらって、それから、自分の指がかじかんでいることを自覚した。
温度のない声を思い出す。もしもその手が温度を持たないなら、少なくとも冷たい雪面に投げ出しているよりも幾分いい。
重い右腕を、持ちあげる。
痺れるような指先を広げて、一度空を切った。
二度目、伸ばした指を掬いあげるように、白い手が触れる。
掴んだ瞬間、熱があった。
手の中で、血流を取り戻した血管が膨らむような錯覚すら感じる。血に乗って熱が体をめぐる前に、スバルは腕を引かれて起きあがった。
大きく息を吐く。止めていたわけでもない呼吸を、陸の上で取り戻したように。
雪で濡れた背中に冷えた風が吹いても、凍えはしなかった。
「な……にをした?」
平行を取り戻した視界で、スバルは改めて「影」を見た。
向かい風に揺れる黒髪の下で、やはり一切の光を返さない瞳がこちらを見据えている。生気のない肌も相まって、色を失ってしまったのかと錯覚してしまうほどだ。しかし、スバルから見ると素朴な作りの防寒着は、正しく色を持っている。
「なにも。単純に、君は生を掴んだ」
スバルに熱を与えたにも関わらず、その声にはいまだ温度がない。
「……まさか」
「捨てるべきでないと思ったのなら、持っておいた方がいい」
生命を語るには、それらしい気配が一切ない人物だった。
それを「彼」と呼ぶか、「彼女」と呼ぶべきかもはっきりしない。仮に人造物であったとしても、そういった要素を廃して作られているように見える。
スバルが何者かを問う前に、
「クリス。異邦人管理局員として、君の保護を担当する」
と、影だったものは名乗った。
スバルの理解を置き去りにして、クリスの言葉は続く。
「ひとまず、応急処置をするべきだ」
「応急……?」
「この環境はヒトには寒すぎる」
そう言うと、クリスは背負っていた荷物を雪の上に下ろした。筒状に巻いた革を、ベルトで留めただけのように見える。
身につけているものから荷物まで、プラスチックや化学繊維が使われているようには見えない。
文明の手が届かない僻地。とするには、言語が通じることも、クリスの言葉選びも、あまりにもそぐわなかった。
スバルの観察をよそに、クリスは黙って背後へまわった。
雪でじっとりと濡れて冷えきったブレザーの背に、躊躇なく触れる。
やはり、その体温は高い。
それどころか、クリスの触れた部分から熱が広がっていくようだった。身の危険を感じるほどの高温ではなく、昼間の陽光に当たっているような、穏やかな暖かさだ。
濡れていたはずの衣服は、ほどなくして完全に乾いていた。
クリスはそのまま、荷物を解く。巻かれていたのは革製の簡素な上着だった。スバルの肩にかけ、首の前で留め具をかける。
裾はといえば有り余って、雪面の上に広がっているような有様だった。長さを調節するために等間隔で分割できるようになっているらしく、パーツ二つ分が取り外されてようやく「少し地面に引きずる」程度に収まっている。
「足元は、もう少し待ってほしい」
クリスが言うのとほぼ同時。
スバルは遠くから足音が近付いてきていることに気付いた。四足の獣が複数、歩調を合わせているような音の連なりだ。
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