第1章
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アーロンのため息は、長く重かった。
あらゆる種族を受け入れる施設の一階。高い天井と幅の広い廊下の中にいて、なお目立つほどに。
異邦人管理局。
それがこの施設と、施設を使用する組織についた名だ。
広さの割に、利用者の気配は希薄だった。過疎地においては管理される異邦人が少なく、職員も相応の数しかいない。
結果、イレギュラー発生時には、その限られた人員に負荷がかかる。
アーロンが夜勤明けに、ほんの数時間で、文字通り叩き起こされて再出勤しているのも、他に対応できるものがいないからだ。
傍らを歩くクリスの表情は、変わらず。
「アールは、いつもイレギュラーが来るのを待っていたはず」
「発音を略すな。というか、俺が恨んでいるのはイレギュラーじゃない。お前に手加減を教えなかった過去の自分だ」
言いながら、アーロンは短い銀髪を掴むようにかき上げる。眠気覚ましの冷水の名残で湿った髪は、外気に当たって更に冷え切っていた。
「なら、ヒトは昼行性なのだから、夜勤を減らした方がいい」
「却下だ。たまには狩りをしないと体がなまる」
思い返してみれば。
昨夜、というよりはほとんど早朝に追いかけていたふたり組の盗人は、あの場で捕えなくて正解だった。
犯罪者の捕縛にも、事後対応というものは当然存在する。仮眠程度ではあっても睡眠時間を確保できたのは、アーロンにとっても幸運なことだ。
視界の端で、クリスが首を傾げる。
疑問、と捉えるには無機質な動作だった。どちらかというと、フクロウが相手との距離を測る動きに近い。
「狩りとは、獲物を捕らえる行為を指すのでは」
「……いつの間に、嫌味なんて高度なコミュニケーションを覚えたんだ?」
「なぜ君がその結論に至ったのか、理解ができない」
クリスの情操教育は、まだ道半ばだった。
だがそもそも、それは本来の業務ではない。
アーロンがひらりと片手を振ると、クリスはそれ以上の言及をしなかった。
目的の部屋の扉は、大きく開け放たれていた。
内部はひどい有様だ。
革表紙の重厚な本が、そこらじゅうに放り投げられている。読みかけか、あるいは参照したページを開いたままにしているのだろう。
「入っても?」
アーロンが声をかけると、部屋の奥で本の山がひっくり返った。
気の抜けるような、間延びした女の声が返る。
「あたた……ここまで来れそぉ?」
「さぁね。試してみるか?」
軽く答えたものの、寝不足の目と体幹には過酷な道筋だった。
足の踏み場もなければ手の置き場もない。積みあがった本の山は部屋に点在しているものの、奇跡的なバランスで成り立っている。手をかけることはおろか、触れることすらためらう不安定さだ。
それでも、クリスには躊躇がなかった。小柄で華奢なだけ身軽に動けるという理由もあるが、元々そういった感情の機微とは無縁に見える。
川の飛び石を渡るように進むクリスの背を見て、アーロンは気が重い一歩を踏み出した。
部屋には、革と紙とインクの香りが充満している。ヒトにとって使い慣れた日用品由来でも、香りの密度や濃度には限度というものがある。目眩すら覚えたこめかみを抑えて、アーロンは視覚に意識を集中した。
本を崩さずに進むことに成功すると、部屋の奥には一脚のひとりがけソファがあった。先に到達していたクリスはソファの傍らに立っている。向き合って置かれた木製の事務机は、天板の広さの割に背が低い。
机の向こうで崩れた本を整えているのは、ずんぐりした骨格のドワーフだった。
「少しは片付けた方がいい。この後客が来るんだろう」
「ドルチェさんだってぇ、昨晩まではちゃんと掃除してたのよぉ。今朝、急に仕事が増えちゃったからぁ」
ぺちぺちと、そこだけは整然と片付いた机の天面を叩いて、ドルチェは答える。
スプリングホーンに配属されてから二年経つが、アーロンはまだこの部屋が「片付いた」のを見たことがない。壁と一体化した本棚にある空きスペースはほんのわずかで、床に累積した本をすべて収納するのはそもそも不可能だった。
「経費で買うなら、書籍の厚さと什器の容量を管理しておけ」
「実はぁ、この中に私物の本もあってぇ……」
「論外だ」
短く息を吐いて、アーロンはソファへ腰を下ろした。ヒトとしては長身な方でもなお余るほど座面は広く、比例して背もたれも高い。
ネズミのような小型生物から、クマの獣人のような大型生物まで。言葉を解するものであれば、すべての異邦人は管理対象だ。故に、異邦人に向けて用意された家具は「大は小を兼ねる」ものとして選定される。
通常であれば座りにくく、しかし今日に限っては。
「座ってて大丈夫ぅ?」
「よく眠れそうだ」
「君を運べる力持ちはウチにはいないからぁ、寝ないでねぇ」
間延びしてはいるものの、ドルチェの指摘は鋭く適切だった。
重い背中を引き剥がし、上体を起こす。その傍らで、クリスは坦々と言葉を継いだ。
「運べなくても、起こすことはできる」
「やめてくれ。というか、二度とするな」
ドルチェの目が大きく瞬きをする。珍しいものを見るように、まずはアーロンへ、次いでクリスへ視線を向けた。
「どうやって起こしたのぉ?」
「アーロンが一番早く起きるのは、誰かに命を狙われたときだ」
沈黙。
ぽかりと口を開けて、ドルチェが固まる。一日の大半を文字の山に埋もれて過ごす彼女が、クリスの発した一文を飲み込むのに長い時間を要しているらしかった。
「それは……危ないし、もうしない方がいいかもぉ」
「他人には勧めない。アーロンが完全に目を覚ますより、その体が反撃に移る方が早かった」
「この条件で、起こす側の方が危険なこともあるんだねぇ」
クリスの返答を、ドルチェは新しい知識として受け止めることにしたらしい。
危うく加害者になりかけたアーロンからしてみれば、クリスが「一般的な」倫理観を持っていないことは深刻な問題だったが。
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