第一噺その2

「ほんと、素敵だなぁって思ったんです」


カウンターの上に置いたグラスを、

指先で軽く回しながら、スズカはそう言った。

店内には、落ち着いたジャズが小さく流れている。


平日の夜。

客は少なく、カウンター席もほとんど埋まっていなかった。


カウンターの内側で、

男がグラスを拭きながら顔を上げる。

「へぇ」

関西弁だった。

軽い相槌だけれど、

話を聞いていない感じはしない。


「清潔感もあって、

 映画の趣味も同じで、

 話し方も丁寧で……」


スズカは、少し言葉を探すように視線を落とす。

「……正直、婚活パーティーであんなにちゃんと話せる人に会えると思ってなくて。」

「ほぉ」

男は短く返す。

「え、めっちゃええやん」


思ったよりもはっきりした反応に、

スズカは思わず笑った。

「ですよね?」

「うん。それ聞いてる限りやと、

 今んとこ減点要素ゼロやで」

「減点要素って……」

「いや、ほら。

 婚活やと、“悪くない”が一番強いやろ?」


スズカは、

「たしかに」と小さく頷いた。


「で、その人とは、

 連絡先も交換して」


「ほう」


「それから、

 毎日、連絡が来るようになったんです」


男は、

特に表情を変えずに続きを促す。

「おはようございます、とか。

 今日は寒いですね、とか。

 仕事お疲れさまです、とか……」

スズカは、

指折り数えるように言葉を並べた。


「ほんと、普通の内容で」

「それは……まぁ、普通やな」

「ですよね?」

「うん。連絡多い人は多いし」


少し間を置いてから、男は続ける。

「嫌、ではないんやろ?」

スズカは、

一瞬だけ考えてから答えた。

「……嫌、ではないです」

「ほな、ええやん」

その言い方は、

突き放すでもなく、

決めつけるでもなかった。


スズカは、

自分の中にある小さな違和感を、

まだ“違和感”と呼べないまま、

そのまま胸の奥にしまう。


「ただ……」

言いかけて、

言葉を止める。

「ただ?」

「……いえ。

 ほんとに、些細なことなんです」

「・・・」

男は、それ以上深掘りしない。


「まぁ...疲れてる時やと、

 連絡多いだけでしんどく感じることもあるしな」

「そう、ですよね」

スズカは、

少しだけ肩の力を抜いた。


「今日は、軽めにしとこか」

男はそう言って、

グラスを差し出す。

「考えすぎる前に、頭ゆるめとき。」


「ありがとうございます」

一口飲む。

アルコールの熱が、

ゆっくりと体に広がっていく。


「まぁ……」

男は、

独り言のように言った。


「止む時は、止む時に止むわ」


スズカは、

その言葉の意味を深く考えず、

曖昧に笑った。

「占い師さんみたいですね」

「俺?」

男も、軽く笑う。

「こう見えて、

 占い出来んねん…


―しらんけど。」


…――


 その日の帰り道。

ほろ酔いのスズカは、スマートフォンをバッグに入れたまま歩いていた。


駅から自宅までは、十分ほど。

夜風が少し冷たく、頭の奥に残っていたアルコールが、ゆっくりと引いていく。


――あ。

歩きながら、ふと胸の奥が引っかかる。

ライン、返してない。

グラスを置いて、店を出て、電車に乗って。

ここまで来る間、一度も画面を見ていなかったことに気づく。

スズカは足を止め、バッグからスマートフォンを取り出した。



画面を点けた瞬間、

心臓が一拍、遅れて跳ねる。 




《通知 25件》




「……え?」

思わず、声が漏れた。

家族。

友達。

職場。

誰かに、何かあったんじゃないか。

一番考えたくない想像が、頭をよぎる。

喉の奥が、ひくりと鳴った。

慌ててロックを解除する。

通知の一覧が、

上から下まで、きっちりと並んでいる。

……全部、同じ名前だった。



朝霞マサト



指が、止まる。

画面に触れていないのに、

心臓の鼓動だけがやけに大きく聞こえた。

深呼吸をしてから、

ラインを開く。

《大丈夫ですか?》

《お仕事、忙しかったですか?》

《返信、無理しなくていいので》

《寒いので、体調崩してませんか》

《電車、ちゃんと乗れました?》

スクロールする。

指を動かすたび、

同じ口調、同じ温度の言葉が続く。

《今日はBARに行くって言ってましたよね》

《もう帰りましたか?》

《遅くなってすみません、気になって》

《迷惑だったら言ってください》

《でも、心配で……》

どれも、丁寧だった。

責める言葉は、ひとつもない。

むしろ、

「優しい人」の文章だ。


――ただ、数が多い。

それだけなのに、

胸の奥に、薄い膜が張る。

スズカは画面を見つめたまま、

しばらく動けずにいた。


嫌、ではない。

心配してくれているのだと、分かる。

返事をしていないのは、自分だ。

そう、何度も頭の中で言い聞かせる。


《ごめんなさい。

 今、帰り道です》


送信。


……一秒もしないうちに、既読がついた。

《よかったです》

《安心しました》

《お疲れさまでした》

その速さに、

胸の奥が、きゅっと縮む。


――早い。


…たまたまだ。

たまたま、スマホを見ていただけ。

そう思おうとする。


スズカは歩き出す。

けれど、バッグにスマートフォンを戻す前に、

もう一度だけ、画面を見てしまう。


未読は、ない。

夜道には、

自分の足音しか聞こえなかった。

その静けさの中で、

スズカは、さっきBARで聞いた言葉を思い出していた。



――止む時は、止む時に止むわ



意味は、分からない。

ただ、

その言葉が、

なぜか今になって、

少しだけ遅れて胸に残っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る