第十五章「旅立ちの準備」

出発の朝が来た。


一刀は最小限の荷物をまとめた。剃刀、ハサミ、シェービングブラシ、石鹸、タオル——理容に必要な道具だけを持っていく。


「これ、持っていってください」


蒸野が小さな袋を差し出した。


「何だ」


「エタノール。消毒用です。残り少ないけど……」


「……ありがとう」


一刀は袋を受け取った。貴重な消耗品だ。蒸野が自分の分を削ってくれたのだろう。


「俺からも」


ハジメが何かを持ってきた。木彫りの小さな像だ。


「これは?」


「お守りです。村の人に教えてもらって、自分で彫りました。旅の安全を祈って」


「……」


一刀は像を手に取った。不器用な造形だが、心がこもっている。


「ありがとう。大事にする」


「はい……」


セリーヌが馬を連れてきた。


「準備はいいか」


「ああ」


一刀は蒸野とハジメを見た。


「後は任せた」


「はい」


「必ず帰ってきてくださいね」


「ああ」


一刀は馬に跨った。


「行ってくる」


「行ってらっしゃい……!」


蒸野とハジメが手を振った。一刀とセリーヌは、王都の門を出て、東へと向かった。


旅は、予想以上に過酷だった。


道は悪く、野宿を強いられることも多かった。食料は乏しく、水を確保するのにも苦労した。


しかし、最大の障害は——穢れに侵された人々だった。


「助けてくれ……」


道端に倒れている旅人。髪は肩まで伸び、黒い霧を纏っている。


「見捨てて行けません」


セリーヌが馬を止めた。


「……わかっている」


一刀は馬から降りた。


道具を取り出し、応急的な施術を行う。蒸しタオルはないが、水で髪を濡らし、石鹸で洗い、ハサミで切る。


「……ありがとう……」


旅人は意識を取り戻し、涙を流した。


「あんた、何者だ……」


「ただの理容師だ」


一刀は道具を片付けた。


「髪が伸びたら、また誰かに切ってもらえ。それだけで、穢れは防げる」


「髪を切る……?」


「そうだ。清潔を保て。それが、穢れに対抗する最善の方法だ」


旅人は呆然と頷いた。一刀とセリーヌは、再び旅を続けた。


同様の出来事が、何度も繰り返された。


穢れに苦しむ人々に出会うたび、一刀は足を止めて施術を行った。時間はかかるが、見捨てることはできなかった。


「貴方は、優しいな」


ある夜、焚き火を囲みながら、セリーヌが言った。


「優しい?」


「自分の旅を遅らせてでも、見知らぬ人を助ける。それは、優しさだ」


「違う」


一刀は火を見つめた。


「俺は、見て見ぬふりができないだけだ。穢れに苦しむ人を見ると、放っておけない」


「それが優しさだと言っている」


「……」


「私は、貴方に出会えてよかった」


セリーヌは微笑んだ。


「貴方のおかげで、私は変われた。穢れに怯えて生きるだけだった私が、今はこうして旅をしている」


「お前が変わったのは、お前自身の力だ」


「そうかもしれない。でも、きっかけをくれたのは貴方だ」


セリーヌは焚き火に薪をくべた。


「理容神を解放したら……貴方は、どうするつもりだ」


「どうする……?」


「元の世界に帰るのか?」


一刀は黙った。


考えたことがなかったわけではない。この世界に来てから、ずっと——帰れるのか、帰りたいのか、帰ってどうするのか。


「わからない」


正直に答えた。


「元の世界に帰れる方法があるかどうかも、わからない。帰りたいかどうかも……」


「帰りたくない?」


「この世界には、俺を必要としてくれる人がいる。蒸野、ハジメ、村の人たち、王都の人たち……。彼らを置いて帰るのは——」


「……」


「でも、元の世界にも、俺の店がある。俺の人生があった。簡単に捨てていいものじゃない」


一刀は空を見上げた。二つの月が輝いている。


「今は、目の前のことだけを考える。理容神を解放する。それが終わってから、考える」


「……わかった」


セリーヌは頷いた。


「私も、貴方と一緒に考える。最後まで」


旅は続いた。




(第三部 完)


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