第六章「蒸しタオルの奇跡」
異世界に来て一ヶ月が経った。
「床屋・神楽」は、もはや周辺地域で知らぬ者がいないほどの存在になっていた。穢れに苦しむ人々は、数日かけて旅をしてでもこの店を訪れる。予約は常に埋まり、緊急枠を求める声も絶えなかった。
朝の開店準備。一刀は竈の火を見つめながら、湯が沸くのを待っていた。
「神楽さん、タオルの準備できました」
ハジメが蒸しタオルの入った桶を抱えてきた。この一ヶ月で、彼の動きは見違えるほど機敏になっていた。
「よし。温度は確認したか」
「はい。自分の手首で測りました。八十度以上、間違いないです」
「いいだろう」
蒸しタオルの管理は、ハジメの最も重要な仕事の一つになっていた。温度、湿度、衛生状態——すべてを彼が監督している。
「ねえ、ハジメくん」
蒸野が受付の準備をしながら声をかけた。
「蒸しタオルって、こっちの世界では『奇跡』なんだって。知ってた?」
「え? 奇跡?」
「昨日来たお客さんが言ってたの。『あの温かい布を顔に当てられたとき、神の祝福を受けたかと思った』って」
ハジメは照れくさそうに頭を掻いた。
「そんな大げさな……」
「大げさじゃないんですよ」
一刀が口を挟んだ。
「この世界には、蒸しタオルという概念がなかった。布を温めて顔に当てるだけのことが、千年間、誰にも思いつかなかった。あるいは、思いついても実行する理由がなかった」
「どうしてですか?」
「清浄師ギルドが、穢れを祓う方法を独占していたからだ。一般人が清潔について考える必要がなかった——いや、考えることを禁じられていたと言ってもいい」
蒸野が眉をひそめた。
「なんか、すごく嫌な話ですね」
「ああ。だからこそ、俺たちがやっていることには意味がある」
店の外から、人の気配がした。予約の一番目が到着したらしい。
「よし、今日も始めるぞ」
一刀は剃刀を手に取った。
午前の施術を終え、昼休憩。
蒸野が簡単な食事を用意している間、一刀は店の外に出た。二つの太陽が中天にかかり、独特の熱を放っている。この世界の光は、元の世界よりも少し赤みがかっている気がした。
「神楽さん」
振り返ると、ハジメが立っていた。何か言いたそうな、しかし躊躇っているような表情だ。
「どうした」
「あの……ちょっと、相談があって」
「言ってみろ」
ハジメは深呼吸してから口を開いた。
「俺、シャンプーの練習をしたいんです」
一刀は黙って彼を見た。
「蒸野さんがやってるの、ずっと見てました。俺も……客の役に立ちたい」
「お前は十分役に立ってる」
「でも、もっと——」
「ハジメ」
一刀は彼の肩に手を置いた。
「理容師法って知ってるか」
「……元の世界の法律ですよね」
「ああ。免許を持たない者が、客の身体に触れる施術を行うことは禁じられている。シャンプーも例外じゃない」
「でも、ここは異世界で——」
「そうだ。この世界には理容師法なんてない。だが、法律があるから守るんじゃない」
一刀は真剣な目でハジメを見た。
「技術が未熟なまま客に触れれば、怪我をさせる可能性がある。爪が頭皮を引っかける、水が耳に入る、温度管理を誤って火傷させる——素人が見よう見まねでやれば、必ずそういう事故が起きる」
「……」
「お前を信用していないわけじゃない。むしろ、お前の成長には期待している。だからこそ、焦らせたくないんだ」
ハジメは俯いた。その肩が小さく震えている。
「俺……悔しいんです。神楽さんと蒸野さんが一生懸命やってるのに、俺だけ直接客の役に立てなくて」
「ハジメ」
一刀は彼の肩を強く握った。
「衛生管理を軽く見るな」
「え……」
「お前が毎朝やっている仕事——消毒、タオルの準備、器具の管理。それがなければ、俺は安全に施術できない。お前の仕事は、俺の仕事を支えている。間接的にではなく、直接的にだ」
ハジメは顔を上げた。
「理容師は一人じゃ成り立たない。チームで動く仕事だ。お前は今、そのチームの一員として、欠かせない役割を果たしている。それを誇れ」
「……はい」
「ただし」
一刀は少し間を置いた。
「シャンプーの練習自体は許可する。営業時間外に、俺の監督のもとで、ウィッグか——この世界にはないか。まあ、何か代わりになるもので練習しろ。技術が十分に身についたら、客への施術を任せる」
ハジメの目が輝いた。
「本当ですか!」
「ただし、俺が許可を出すまでは絶対に客に触るな。いいな」
「はい! ありがとうございます!」
ハジメは駆け足で店の中に戻っていった。一刀はその背中を見送りながら、小さく息をついた。
「難しいですね、教えるのって」
蒸野が隣に来ていた。
「聞いてたのか」
「ごめんなさい。でも、いい話だったから」
「……そうか」
「神楽さん、厳しいけど優しいですよね」
「厳しくなきゃ、この仕事はやっていけない」
「だから、優しさが際立つんですよ」
蒸野は微笑みながら言った。一刀は返す言葉を見つけられず、黙って店内に戻った。
午後の施術が始まった。
三人目の客は、中年の女性だった。髪は腰まで伸び、黒い霧を纏っている。しかし、彼女の特徴はそれだけではなかった。
「どこか、具合が悪いですか」
蒸野が問診を行っている。女性は弱々しく頷いた。
「穢れが……ひどくて。もう何年も、まともに起き上がれない日があります」
「何年も?」
「はい。でも、清浄師に払うお金がなくて……」
一刀はカルテ——蒸野が作成した簡易的な問診票——を確認した。
「重症の慢性穢れか。髪だけじゃなく、身体全体に影響が出ている」
「治りますか……?」
「やってみる。ただ、一度の施術では完全には祓えないかもしれない。何度か通ってもらう必要がある」
女性は涙ぐんだ。
「何度でも来ます。お願いします……」
一刀は彼女を理容椅子に座らせた。まず、髪の状態を確認する。穢れは髪の奥深くまで浸透しており、表面をカットしただけでは祓いきれないだろう。
「ハジメ、蒸しタオルを」
「はい」
ハジメが蒸しタオルを持ってきた。一刀はそれを女性の頭に巻いた。
「しばらくこのままで。髪を温めて、柔らかくする」
「……あったかい」
女性の表情が和らいだ。一刀は彼女の反応を見ながら、考えを巡らせた。
蒸しタオル——80度以上の熱と湿気が、髭のケラチンタンパク質を膨潤させ、軟化させる。それが元の世界での理論だ。だが、この世界では別の効果がある。
「穢れを浮かせているのか……」
「神楽さん?」
「いや、独り言だ」
一刀は蒸しタオルを外し、シャンプーに移った。蒸野が補助につく。
「温度、三十八度で」
「了解です」
湯で髪を濡らし、石鹸で泡立てる。指の腹で頭皮を揉み出すように洗う。すると——
「あ……」
女性が声を上げた。黒い霧が、泡と一緒に流れ落ちていく。
「穢れが……落ちてる……」
「シャンプーが効いている」
一刀は確信した。蒸しタオルで穢れを浮かせ、シャンプーで洗い流す。二段階のプロセスが、カットだけよりも効果的に穢れを除去しているのだ。
「蒸野さん、もう一度泡立てて」
「はい!」
二度目のシャンプー。さらに穢れが落ちていく。三度目で、髪に纏わりついていた黒い霧はほぼ消えた。
「すごい……こんなにすっきりしたの、何年ぶりだろう……」
女性は涙を流していた。
カットに移る。伸びすぎた髪を、肩の下あたりまで切り揃える。レイヤーを入れて軽さを出し、顔周りをフレーミングする。
「お、終わりです」
「……ありがとうございます……本当に、ありがとうございます……」
女性は深く頭を下げ、店を出ていった。
「神楽さん」
蒸野が興奮した様子で言った。
「今の、すごくないですか? シャンプーだけであんなに穢れが落ちるなんて」
「ああ。蒸しタオルとシャンプーの組み合わせが、カット以上の効果を発揮している」
「どうしてでしょう?」
一刀は考えた。
「推測だが……穢れは髪の表面だけでなく、根元——頭皮にも付着しているんじゃないか。カットは髪自体を切り落とすが、頭皮についた穢れは残る。蒸しタオルの熱で穢れを浮かせ、シャンプーで頭皮から洗い流す。それで、より徹底的に祓えている」
「なるほど……」
「ただ、これには時間がかかる。一人あたりの施術時間が長くなれば、一日に受け入れられる人数が減る」
「バランスが難しいですね」
「ああ。でも、重症の患者にはこの方法が有効だとわかった。軽症はカット中心、重症は蒸しタオル+シャンプー+カットのフルコース。症状に応じて使い分ければいい」
その夜、一刀は施術の記録をまとめた。
症状の軽重、使用した技術、効果の度合い——データを蓄積することで、より効率的な穢れ祓いの方法が見えてくるはずだ。
「神楽さん、まだ起きてるんですか」
蒸野が顔を出した。
「もう少しで終わる」
「無理しないでくださいね」
「ああ……」
一刀は記録の最後に、今日の発見を書き加えた。
『蒸しタオルによる軟化+シャンプーによる洗浄が、穢れの除去に高い効果を示す。蒸しタオルは「穢れを浮かせる」前処理として機能している可能性。重症患者へのアプローチとして有効』
筆を置き、天井を見上げた。
この世界の人々を救うための方法が、少しずつ見えてきている。だが同時に、敵——清浄師ギルド——の影も、確実に近づいてきていた。
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