第五章「床屋・神楽、開店」
異世界に来て二週間が経った。
「床屋・神楽」は、周辺の村々で知られる存在になっていた。穢れに苦しむ者は、何日もかけてこの森の中の店を目指して歩いてくる。
朝の開店準備は、元の世界と変わらない。
一刀は夜明け前に起き、まず剃刀を研ぐ。砥石は村の鍛冶屋から譲り受けた粗めのもので、研ぎ味は祖父の時代に使っていた天然砥石には及ばない。それでも、刃物を鋭く保つことは理容師の義務だ。
竈に火を入れ、水を沸かす。煮沸消毒の準備だ。ハジメが前日のうちに川から汲んできた水を大鍋に注ぎ、沸騰させる。
「おはようございます、神楽さん」
「おう。早いな」
ハジメは毎朝五時に店に来るようになった。掃除から始まり、タオルの準備、器具の消毒——一連の作業を黙々とこなしていく。
「今日は何人くらい来ますかね」
「わからん。昨日は三十人だった。今日はもっと多いかもしれない」
「大変ですね……」
「だから、お前の仕事が重要なんだ」
一刀は煮沸消毒器——元の世界から持ってきたものはまだ使えている——にハサミを沈めた。二分間。その間に、ハジメは蒸しタオルの準備に取りかかる。
蒸野は少し遅れて店に来る。彼女は食事の準備と、客の受付を担当している。
「おはようございまーす。今日もいい天気ですね」
「天気っていうか、ここ毎日晴れてるぞ」
「そうなんですよね。二つの太陽がある世界って、雨降らないんですかね」
「降るらしい。村長が言ってた。雨季があるって」
「へえー」
日常会話を交わしながら、開店準備が進んでいく。
午前七時、店の前に人が集まり始めた。
「本日の一番乗りはお子さんですね」
蒸野が入り口で声をかける。母親に手を引かれた五歳くらいの少女が、おどおどと店内に入ってきた。髪はぼさぼさで、黒い霧が微かに纏わりついている。
「この子の穢れを……お願いできますか」
母親の声は震えていた。
「任せてください」
一刀は少女の目線に合わせてしゃがんだ。
「お名前は?」
「……リリィ」
「リリィちゃんか。いい名前だな。今からちょっと髪を触るけど、怖くないぞ。終わったら、すごく気持ちよくなる」
少女は不安そうな目で一刀を見ていた。この世界の子供たちは、髪を切られることに恐怖を感じている。千年もの間、理容という行為が「失われた神の技」として語り継がれてきたのだ。未知のものに対する本能的な警戒心がある。
「ちょっと待っててな」
一刀は奥からキャンディーを取り出した。これは村人が差し入れてくれた蜂蜜飴だ。
「これ、好きか?」
少女の目が輝いた。
「お母さん、食べていい?」
「え、ええ……」
「じゃあ、髪を綺麗にしてる間、これを舐めててくれ。終わったら、もう一個あげる」
少女は飴を受け取り、口に入れた。甘い味が広がったのか、表情が和らいだ。
一刀は彼女を理容椅子に座らせた。椅子は大人用なので、クッションを敷いて高さを調整する。
「動かないでくれよ」
まずはクシで髪を梳かす。絡まりをほどきながら、髪の状態を確認する。穢れは初期段階——髪の表面に付着している程度だ。カットだけで十分に祓える。
シザーを手に取る。少女は目を瞑り、身を固くした。
「大丈夫だ。痛くない」
最初の一切り。髪がはらりと落ちる。黒い霧が消散し、少女の肩の力が抜けた。
「……あれ?」
「どうした?」
「なんか……軽くなった」
「そうだろう。髪は重いんだ。切ると楽になる」
一刀は続けてカットを進めた。肩のラインで揃え、前髪は眉の上に。少女の顔立ちに合わせて、丸みのあるシルエットを作る。
子供の髪を切るのは、大人より難しい。じっとしていられないし、急に動く。しかし一刀にはその経験があった。元の世界でも、子供の客は少なくなかった。
「終わりだ」
ケープを外すと、少女は鏡を覗き込んだ。
「わあ……」
髪は清潔に整えられ、黒い霧は完全に消えていた。何より、少女の表情が明るくなっている。穢れが抜けたことで、顔色まで良くなったように見えた。
「リリィ! よかった……」
母親が涙を流しながら少女を抱きしめた。一刀は黙ってハサミを消毒液に浸した。
「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます……」
「礼には及ばない。次は一ヶ月後くらいに来てくれ。髪が伸びたら、また穢れが溜まるかもしれないから」
「はい……はい、必ず」
母子が去った後、すぐに次の客が入ってきた。中年の男性、髭が胸まで伸び、黒い霧を濃く纏っている。重症だ。
「座ってくれ」
一日が始まった。
昼過ぎ、一刀は施術の手を止めて休憩を取った。
ハジメが握り飯を持ってきた。蒸野が作ったものだ。
「神楽さん、少し休んでください」
「ああ……」
理容椅子にもたれかかり、目を閉じる。疲労が骨の髄まで染み込んでいるようだった。一日に三十人以上の施術をこなす生活が、二週間続いている。元の世界でも忙しい日はあったが、これほどではなかった。
「神楽さん」
蒸野の声がした。目を開けると、彼女が心配そうな顔でこちらを見ていた。
「このペース、体壊しますよ」
「わかってる」
「わかってないです。顔色、悪いですもん」
「……そうか」
一刀は自分の手を見た。指先が微かに震えている。握り飯を食べようとしても、箸がうまく持てなかった。
「今日はもう店を閉めましょう」
「まだ外に人が——」
「待ってもらいます。神楽さんが倒れたら、この店は終わりなんですから」
蒸野は珍しく強い口調で言った。一刀は反論できなかった。
結局、その日の午後は店を閉め、一刀は休息を取ることになった。ハジメが外で待っている客に事情を説明し、蒸野が一刀の世話を焼いた。
「本当に……すまん」
「謝らないでください。私たちだって、神楽さんに頼りすぎてました」
蒸野は湯を沸かし、濡れタオルを絞った。一刀の額に当てる。
「……これ、逆じゃないか」
「逆?」
「本来なら、俺が客にやることだ」
「今は神楽さんが客ですよ。私のお客さん」
その言葉に、一刀は小さく笑った。
「変な気分だ」
「でしょうね。でも、たまにはいいじゃないですか」
タオルの温もりが、疲れた身体に染み渡る。一刀は天井を見つめながら、ぼんやりと考えた。
この世界で、自分は何をしているのだろう。
元の世界に帰る方法は、いまだにわからない。そもそも、なぜ自分がここに来たのかすら不明だ。ただ、目の前に穢れに苦しむ人々がいて、自分にはそれを救う技術がある。だから、動いている。
それだけだ。
「神楽さん」
「なんだ」
「私、思うんですけど」
「……また何か」
「神楽さんって、自分のことは後回しにしますよね」
「そんなことは——」
「元の世界でもそうだったんじゃないですか? 仕事ばっかりで、自分の生活とか、あんまり考えてなかったでしょ」
一刀は口を噤んだ。図星だった。
「この店を継いでから……ずっとそうだった。父が亡くなって、一人で店を切り盛りするようになって。休む暇なんてなかった」
「だからって、倒れるまで働くことないじゃないですか」
「客がいるんだから——」
「客のためにも、神楽さんが健康でいなきゃ駄目なんですよ」
蒸野は真剣な目でそう言った。
「私も、ハジメくんも、神楽さんがいないとやっていけません。この世界の人たちだって同じです。だから……もう少し、自分を大事にしてください」
「……」
一刀は何も答えられなかった。
その夜、店の奥で三人は食事をとった。
「神楽さん、明日からどうしましょう」
ハジメが切り出した。
「このペースじゃ、いつか限界が来ます。何か対策を考えないと」
「わかっている」
一刀は箸を置いた。
「実は、考えていたことがある」
「何ですか?」
「予約制にしようと思う」
蒸野が首を傾げた。
「予約制?」
「今は来た順番に施術しているが、それだと俺のキャパシティを超える。一日に受け入れられる人数を決めて、事前に予約してもらう。緊急の場合は別枠を用意するが、基本的には予約者を優先する」
「それなら、神楽さんの負担も減らせますね」
「ただ、問題がある。予約の管理を誰がやるかだ」
蒸野が手を挙げた。
「私がやります」
「できるか?」
「元の世界で事務職やってたんですよ? スケジュール管理なんて朝飯前です」
「……そうか。頼む」
「任せてください!」
ハジメも口を開いた。
「俺は……もっと効率的に準備できるように頑張ります。タオルの数とか、消毒のタイミングとか、無駄がないようにします」
「ああ。頼りにしている」
三人の役割分担が、より明確になった。一刀は施術に集中し、蒸野は予約と接客を担当し、ハジメは衛生管理と準備を受け持つ。限られた資源と人員で、最大限の効果を出すための体制だ。
「あと、もう一つ」
一刀は続けた。
「村人に、簡単な衛生管理を教えたい」
「どういうことですか?」
「髪を切ったり髭を剃ったりするのは無理でも、手を洗う習慣とか、煮沸消毒の方法とか——基本的な清潔を保つ方法なら、誰でもできる」
「ああ、公衆衛生ってやつですね」
「そうだ。穢れの根本的な解決にはならないかもしれないが、少なくとも進行を遅らせることはできるはずだ」
蒸野が目を輝かせた。
「それ、いいですね! 予防医学みたいなもんじゃないですか」
「予防……まあ、そうだな」
一刀は頷いた。
「この世界には、清潔という概念そのものが希薄だ。千年前に理容神がいなくなってから、身体を清めることは特権階級だけのものになった。でも本来、清潔は誰もが享受できるべきものだ」
「神楽さん……」
「俺は理容師だ。髪を切り、髭を剃ることしかできない。でも、清潔であることの価値は伝えられる。それが、俺にできる最大限のことだ」
その夜、一刀は久しぶりに深い眠りについた。
翌日から、「床屋・神楽」は予約制に移行した。
蒸野が手作りの予約帳を作り、客に番号札を渡すシステムを導入した。一日の上限は二十人。緊急枠は三人分を確保し、重症の穢れに苦しむ者を優先する。
ハジメは作業の効率化に取り組んだ。タオルの準備量を計算し、消毒のサイクルを最適化し、器具の配置を見直した。
一刀は施術の合間を縫って、村人向けの「衛生講習」を開催した。
「いいか、手を洗うことの意味を教える」
集まった村人たちに、一刀は石鹸と水を見せた。
「この世界の穢れは、髪や髭に溜まるものだ。だが、俺の世界では別の『穢れ』がある。目に見えない小さな生き物——病原体と呼ばれるものだ」
「病原体……?」
「病気を引き起こすものだと思ってくれ。この病原体は、手についたまま口に入ると、身体の中で悪さをする。だから、食事の前や、汚れたものを触った後は、必ず手を洗う」
村人たちは半信半疑の様子だったが、一刀は構わず続けた。
「煮沸——水を沸騰させることで、この病原体を殺すことができる。飲み水は必ず沸かしてから飲め。傷口を洗うときも、煮沸した水を冷ましてから使え」
「……そうすれば、病気にならないのか」
「ならないとは言い切れない。だが、確率は下がる。清潔を保つことで、身体を守ることができる」
講習は一時間ほどで終わった。理解できた者もいれば、戸惑う者もいた。それでも、種を蒔くことが重要だと一刀は考えていた。
「床屋・神楽」の名声は、日に日に広がっていった。
しかしそれは同時に、清浄師ギルドの目にも留まることを意味していた。
嵐の前の静けさ。
一刀はそれを感じながら、今日も剃刀を研いでいた。
(第一部 完)
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