第三章「剃刀は聖剣より鋭く」

「床屋・神楽」を拠点に整えるまで、三日を要した。


まず水の確保だった。川から水を汲み、ガスコンロで煮沸する。飲料水だけでなく、施術に使う水も必要だ。ハジメが木製の桶を村人から借りてきたことで、ある程度の量を蓄えられるようになった。


次に火の問題。ガスボンベには限りがある。村人に頼んで薪を調達し、店の裏に竈を作った。煮沸消毒はこれで行う。タオルスチーマーの代わりに、鍋で湯を沸かし、その蒸気でタオルを温める方法を編み出した。


「昔の理容室って、こんな感じだったのかもしれないですね」


蒸野が鍋の火加減を調整しながら言った。彼女は意外なほど手際がよく、料理の経験を活かして調理場の管理を引き受けてくれた。


「俺の祖父の時代でも、電気と水道はあった」


「じゃあ、もっと昔。百年以上前とか」


「かもしれないな」


消毒液の問題は深刻だった。エタノールの在庫には限りがあり、補充の目処が立たない。一刀は煮沸消毒を基本とし、エタノールは刃物の清拭にのみ使用するよう方針を変えた。紫外線消毒器は電気がなければ使えない。幸い、この世界の日光——二つの太陽から降り注ぐ光——にも殺菌作用があるようだった。器具を日光に当てることで、ある程度の消毒効果が得られることがわかった。


三日目の朝、店の前に人が集まっていた。


「理容師様、お願いします……」


「息子が穢れに……」


「私も、もう限界で……」


ミナが村中に噂を広めていた。穢れを祓える人間がいる、と。


一刀は深呼吸をして、店の扉を開けた。


「一人ずつ案内する。順番に並んでくれ」


最初の「患者」は、十代の少年だった。髪は肩まで伸び、黒い霧を微かに纏っている。まだ初期段階の穢れだ。


「名前は?」


「ルーク……です」


少年は怯えた様子で理容椅子に座った。この世界の人間にとって、刃物を髪に近づけられることは恐怖なのだろう。千年もの間、理容という行為が失われていたのだから。


「怖がらなくていい。ちょっと髪を切って、顔を剃るだけだ」


一刀はネックペーパーを巻き、ケープをかけた。鏡越しに少年の目を見る。


「痛くないからな」


まず洗髪だ。水は貴重なので、濡らしたタオルで髪を拭き、汚れを落とす。本来のシャンプーには程遠いが、ないよりはましだ。


ハサミを手に取る。少年の髪に触れた瞬間、黒い霧がざわめいた。穢れが刃物を恐れているのがわかる。


「動くなよ」


一刀はハサミを入れた。


最初の一cut。髪が落ちると同時に、黒い霧の一部が消散した。少年が小さく息を呑む。


「大丈夫だ。続けるぞ」


レイヤーを入れながら、全体の長さを整えていく。髪を切るたびに、穢れが薄くなっていく。まるで髪そのものに邪気が宿っていたかのように。


カットを終え、シェービングに移る。蒸しタオルを顔に当てる。少年は最初、熱さに驚いたようだったが、すぐにその心地よさに表情を緩めた。


「……あったかい」


「だろう。髭が柔らかくなる」


シェービングブラシで泡を立て、顔に塗布する。剃刀を構え、左手で皮膚を引っ張る——張り手。そして刃を当てる。


順剃りで産毛を除去し、逆剃りで深剃りする。少年の顔から黒い霧が完全に消えていくのを、一刀は自分の目で確認した。


最後に冷たいタオルで毛穴を引き締め、保湿液——村人から分けてもらった植物性の油——を塗布する。


「終わりだ」


一刀はケープを外した。少年は恐る恐る鏡を見た。


「……俺、こんな顔だったっけ」


髪は清潔に整えられ、顔色は健康的な色を取り戻していた。何より、目に生気が戻っている。


「母ちゃん!」


少年は待合で待っていた母親のもとに駆け寄った。母親は息子を抱きしめ、声を上げて泣いた。


一刀は黙ってハサミを消毒液に浸した。


その日、一刀は十五人の穢れを祓った。


村人たちは対価として、食料や日用品を持ってきた。野菜、肉、布、薬草。一刀は金銭を要求しなかった。そもそもこの世界の通貨がわからないし、何より——


「理容師は客を選ばない」


それが、祖父から受け継いだ教えだった。


夜、疲労困憊で理容椅子にもたれかかっていると、蒸野がお茶を持ってきた。


「お疲れ様です。今日、すごかったですね」


「……疲れた」


「そりゃそうですよ。でも、みんな喜んでました」


一刀は天井を見上げた。この世界に来て四日。状況は相変わらず意味不明だが、一つだけわかったことがある。


自分の技術は、ここでも通用する。


「神楽さん」


「なんだ」


「私、思うんですけど」


蒸野は真剣な顔で続けた。


「神楽さんの技術って、この世界では『奇跡』なんですよね」


「大げさだ」


「大げさじゃないですよ。千年間、誰にもできなかったことをやってるんです。それって、聖剣で魔王を倒すのと同じくらいすごいことじゃないですか?」


一刀は苦笑した。


「俺は勇者じゃない。ただの理容師だ」


「でも、この世界には勇者より理容師が必要なんだと思います」


その言葉は、妙に心に響いた。


翌日から、患者——いや、客の数は増え続けた。


隣村からも噂を聞いた人々が訪れるようになった。穢れの重症度は様々で、ミナのように暴走寸前の者もいれば、まだ自覚症状のない初期段階の者もいた。


一刀は全員を受け入れた。朝から晩まで、ハサミと剃刀を動かし続けた。


ハジメは器具の準備と消毒を完璧にこなすようになった。まだ施術はできないが、蒸しタオルの温度管理や、客の誘導は任せられるようになった。


蒸野はシャンプーの補助を始めた。一刀の監督のもと、客の髪を洗い、穢れを落とす前処理を行う。彼女は元々手先が器用で、すぐにコツを掴んだ。


「神楽さん、シャンプーって気持ちいいですね。する側も」


「力を入れすぎるな。指の腹で揉み出すように」


「はい!」


三人のチームワークが形になり始めた頃——


「貴様が噂の偽清浄師か」


店の前に、黒い法衣を纏った一団が現れた。先頭に立つ男は、金の刺繍が施された杖を持っている。その目には、明らかな敵意があった。


「清浄師ギルドの使者だ。無許可で浄化行為を行った罪で、貴様を連行する」


一刀は剃刀を握ったまま、静かに前に出た。


「俺は浄化なんかしていない」


「何?」


「俺がやっているのは、髪を切ることと、髭を剃ること。つまり——」


一刀は使者の目を真っ直ぐに見据えた。


「身だしなみを整えているだけだ」


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