第二章「異界の地に立つ理容室」

鳥の声で目が覚めた。


聞いたことのない鳴き声だった。高く、澄んでいて、しかしどこか異質な響きを持っている。一刀は重い瞼を開き、自分が理容椅子の横で倒れていることに気づいた。


「なんだ……?」


身体を起こすと、全身に鈍い痛みが走った。床に倒れていたせいだろう。しかし、それ以上に奇妙なことがある。


窓の外に、見たことのない森が広がっていた。


一刀は立ち上がり、店の入り口に向かった。ガラスのドアを開けると、湿った空気が流れ込んできた。土と草の匂い。しかしそれだけではない。何か甘い、花のような香りが混じっている。


店の前にあるはずの道路がない。代わりに、背の高い木々が鬱蒼と茂っていた。赤みがかった樹皮、見たこともない形の葉。空を見上げると、太陽らしき光源が二つ並んでいた。


「……夢か」


そう呟いてみたが、頬をつねった痛みは確かなものだった。


「神楽さん!」


店の奥から声がした。一刀が振り返ると、ハジメが作業場から駆け出してきた。顔面蒼白で、目は大きく見開かれている。


「ハジメ……お前、なんでここに」


「わかんないです! 帰ろうとして裏口開けたら、急に光って、気がついたら床で寝てて……」


「待て、蒸野さんは」


「ここにいますよー」


待合スペースのソファから、蒸野がひょっこりと顔を出した。彼女は普段と変わらない様子で、むしろ興味津々といった表情を浮かべている。


「いやー、びっくりしましたね。帰ろうと思ったら光がバーッて来て、気がついたらこれですよ」


「……落ち着いてるな」


「だって焦っても仕方ないじゃないですか。それより、ここどこです?」


一刀は改めて店の外を見た。「床屋・神楽」の建物は無事だ。外壁も、サインポールも、看板も、すべてそのまま。ただ、その周囲の環境が根本から変わっている。


「わからない」


正直に答えるしかなかった。


「とにかく、状況を確認しよう。店の中は無事か?」


三人で店内を調べた。理容椅子、鏡、シャンプー台——すべて元の位置にある。作業場の器具も、消毒液も、タオルも揃っている。しかし、一つだけ重大な問題があった。


「電気がつかない」


ハジメが壁のスイッチを何度も押したが、照明は点灯しなかった。一刀は蛇口を捻ってみたが、水も出ない。


「電気も水道も駄目か……」


「どうしましょう……」


「落ち着け」


一刀は深呼吸をした。パニックを起こしても何も解決しない。今、自分たちにできることを考えるのだ。


「水は近くで確保できる可能性がある。森があるなら、川か井戸があるかもしれない。煮沸すれば飲める。火は……薪を集めて起こせばいい」


「神楽さん、アウトドア詳しいんですか?」


「いや。ただ、煮沸消毒のやり方は知ってる」


理容師として当然の知識が、思わぬ場面で役に立つかもしれない。一刀は店の奥から携帯用のガスコンロを持ち出した。これは停電時の備えとして置いていたものだ。ガスボンベの残量を確認する。二本。当面は何とかなる。


「よし、まず外を探索する。蒸野さんは店番を頼む。ハジメ、お前は俺と来い」


「えー、私も行きたい」


「誰かが残らないと、何かあった時に対応できない。それに、お前は客だ」


「もう客じゃないですよ、こんな状況じゃ。仲間でしょ」


蒸野は真剣な目でそう言った。一刀は少し考えてから頷いた。


「……わかった。三人で行動しよう。店の鍵は閉めておく」


森の中を歩き始めて、すぐに異常に気づいた。


植物のほとんどが見たことのない種類だった。赤い葉をつけた低木、螺旋状に伸びる蔓、地面を覆う青白い苔。空気には常に甘い香りが漂い、時折、光る虫のようなものが視界を横切った。


「ここ、外国じゃないですよね」


ハジメが不安そうに呟いた。


「外国どころじゃないな。太陽が二つある」


「……マジだ」


三人は無言で歩き続けた。十分ほどで、小さな川を見つけた。透明な水が岩の間を流れている。一刀は水を手ですくい、匂いを嗅いだ。異臭はない。


「煮沸すれば飲めそうだ」


その時、茂みが揺れた。


一刀は反射的に身構えた。蒸野がハジメの腕を掴み、後ろに下がる。


茂みの向こうから現れたのは——人間だった。


しかし、普通の人間ではなかった。


髪が異常に伸びていた。腰どころか、足首まで届くほどの長さで、しかもその髪は黒い霧のようなものを纏っている。髭も同様だ。顔の下半分を覆い尽くし、胸元まで伸びた髭が、同じ黒い霧を発している。そして目——目は白く濁り、焦点が合っていなかった。


「う、うぅ……」


その「人間」は呻き声を上げながら、こちらに近づいてきた。動きは緩慢だが、明らかに敵意がある。いや、敵意というよりも、本能的な飢えのようなものが感じられた。


「下がれ!」


一刀は二人を庇うように前に出た。何か武器になるものは——ポケットに手を入れると、硬い感触があった。習慣で持ち歩いている折りたたみ式の剃刀だ。仕事用ではなく、祖父の形見として常に携帯している古いものだ。


「来るな!」


剃刀を開き、構える。相手は怯む様子もなく距離を詰めてくる。あと三メートル、二メートル——


一刀は覚悟を決めた。刃物で人を傷つけることに抵抗はある。しかし、蒸野とハジメを守らなければ。


相手が手を伸ばしてきた瞬間、一刀は剃刀を振るった。狙ったのは顔だった。しかし、刃が触れたのは髭の部分——


その瞬間、信じられないことが起きた。


剃刀が髭に触れると同時に、黒い霧が弾けるように消散した。髭が剃り落とされ、その下から普通の人間の肌が現れる。白濁していた目に光が戻り、男は糸が切れた人形のように崩れ落ちた。


「な……」


一刀は呆然と立ち尽くした。


男は地面に倒れたまま、荒い息をついている。しかし、その表情には先ほどまでの狂気がない。意識を取り戻したかのように、目をしばたたかせている。


「こ、ここは……わしは何を……」


「あ、あの、大丈夫ですか?」


蒸野が恐る恐る近づいた。男は彼女を見上げ、混乱した表情を浮かべた。


「お、お嬢さん……あんたは誰だ? わしは……わしは……」


男は自分の手を見つめた。その手は震えている。


「穢れが……穢れが取れた……?」


「穢れ?」


一刀は剃刀を構えたまま、警戒を解かずに問いかけた。男はゆっくりと起き上がり、一刀の手にある刃物を見た。その瞬間、男の目が大きく見開かれた。


「まさか……あんた、理容の技を……?」


「理容……?」


「髭を剃る技だ。千年前に失われた、聖なる術……」


男は地面に額をつけるように平伏した。


「ありがとうございます、ありがとうございます……穢れから解放してくださって……」


一刀は蒸野とハジメを振り返った。二人とも、何が起きているのか理解できていない様子だった。当然だ。一刀自身も、まったくわかっていなかったのだから。


男の名はミナといった。


森の近くにある村の住人で、三ヶ月前から「穢れ」に侵されていたという。一刀たちは彼を村まで連れていくことにした。歩きながら、ミナは「穢れ」について説明した。


「穢れってのは、髪や髭に溜まる邪気のことだ。誰でも少しずつ溜まっていく。昔は定期的に『清める』ことで防げたらしいが、千年前に理容神様がいなくなってから、その術は失われた」


「理容神……」


「髪と髭を清める神様だ。理容神様が健在だった頃、人々は穢れに苦しむことなく暮らせた。だが神様がいなくなり、穢れは蔓延した。今じゃ、金持ちだけが清浄師に高い金を払って穢れを祓ってもらえる。俺たち庶民は、穢れに耐えるか、ああやって魔物になるかだ」


「魔物……さっきのあんたみたいに?」


「ああ。穢れが限界を超えると、理性を失い、他人を襲うようになる。最終的には完全に人間じゃなくなる」


一刀は自分の手を見た。祖父の形見の剃刀。ただの道具だと思っていた。


「俺がやったことは、なんだったんだ」


「あんたは、俺の穢れを祓った。髭を剃ることで、髭に溜まった邪気を切り落とした。千年前の理容神様と同じことを」


村に着くと、住人たちが集まってきた。ミナが正気に戻ったことに、皆が驚いていた。中には泣き出す者もいた。


「ミナ! あんた、穢れが……」


「この人たちが助けてくれた。信じられないかもしれないが、理容の術を使える人だ」


村人たちの視線が一刀に集中した。畏怖と期待が入り混じった目。一刀は居心地の悪さを感じながら、それでも質問を続けた。


「あんたたちの村にも、穢れに苦しんでいる人がいるのか」


「いる」


答えたのは、村の長らしき老人だった。


「村人の半分以上が程度の差はあれ穢れを抱えている。あと数ヶ月もすれば、ミナのように暴走する者が出てくるだろう」


「清浄師には頼めないのか」


「清浄師は金持ちにしか相手にしない。村一つの穢れを祓うには、何年分もの収穫を差し出さなければならん」


一刀は黙って考えた。


自分がいるのは、異世界だ。常識が通用しない場所。電気も水道もなく、太陽が二つある世界。


しかし、剃刀で髭を剃るという行為は、ここでも有効だった。いや、有効どころではない。この世界では、理容の技術は「聖なる術」として失われていたのだ。


「……店に戻る」


一刀は踵を返した。


「神楽さん、どうするんですか?」


蒸野が追いかけてくる。ハジメも不安そうについてきた。


「決まってるだろう」


一刀は振り返らずに答えた。


「店を開ける」


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