理容師 異世界転生_聖剣よりも切れ味鋭く ~異世界転生した理容室は今日も世界を救う~

もしもノベリスト

第一章「創業百年の朝」

朝の六時、神楽一刀の目覚めは剃刀の研ぎ音から始まる。


砥石の上を滑る鋼の響きは、祖父の代から変わらない。父もそうだった。そして今、三代目となった一刀もまた、営業開始の二時間前からこの音を奏でることを日課としていた。


「床屋・神楽」——創業から百年を数える老舗理容室は、都心から電車で四十分ほど離れた私鉄沿線の商店街にひっそりと佇んでいる。赤・青・白の三色が螺旋を描くサインポールは、曾祖父が開業時に設置したものを三度修繕しながら使い続けている。ガラス張りの店先から見える風景は、この百年で随分と様変わりした。向かいの呉服屋はコンビニエンスストアになり、隣の金物屋は駐車場に姿を変えた。それでも「床屋・神楽」だけは、まるで時の流れから取り残されたように、同じ場所で同じ仕事を続けていた。


研ぎ終えた剃刀を光に翳す。刃先に一点の曇りもない。一刀は満足げに頷くと、剃刀を革砥で仕上げ、消毒用のエタノールを含ませたガーゼで丁寧に拭き上げた。


店内に入ると、まだ薄暗い空間に木と革の匂いが漂っている。天井から吊るされた扇風機、年季の入った待合用の革張りソファ、壁一面を覆う鏡、そして三脚の理容椅子。どれもが使い込まれ、磨き抜かれ、独特の光沢を帯びていた。


一刀は店の奥にある作業場に向かい、朝のルーティンを開始した。


まず、煮沸消毒器に水を張る。沸騰するまでの間に、前日使用した金属器具——ハサミ、ステンレス製のカミソリホルダー、シェービングカップ——を中性洗剤で洗浄する。毛髪や皮脂、微細な血液の痕跡を完全に除去しなければ、煮沸しても意味がない。


湯が沸騰したことを確認し、器具を沈める。二分間。この時間は厳守だ。短すぎれば滅菌が不完全になり、長すぎれば器具を傷める。一刀は壁掛け時計の秒針を見つめながら、頭の中でその日の予約を確認した。


十時に佐藤さん、七十二歳。月に一度のカットとシェービング。十一時半に田中くん、二十八歳。就職面接前の身だしなみ調整。十四時に蒸野さん、二十八歳。レディースシェービングの常連客——


煮沸を終えた器具を清潔なトレーに並べる。次は消毒液の調合だ。万能壺と呼ばれる器具入れに、濃度を厳密に計算したグルコン酸クロルヘキシジン溶液を注ぐ。この液は毎日取り替える。光や有機物で劣化するためだ。百年前、曾祖父がこの店を開いた頃には、こうした科学的な衛生管理の概念すらなかった。しかし今、理容師は「公衆衛生の守護者」としての責務を負っている。一刀はその自覚を、日々の消毒作業を通じて身体に刻み込んでいた。


タオルスチーマーの電源を入れる。蒸しタオルの準備は開店一時間前から始めなければならない。乾いたタオルを水に浸し、「水が滴り落ちない程度」に絞る。水分が多すぎれば蒸気が過剰に発生し、タオルが熱くなりすぎる。客の顔に火傷を負わせるリスクがある。少なすぎれば、タオルは十分に温まらず、髭を軟化させる効果が得られない。


ロール状に巻いたタオルをスチーマーに並べていく。詰め込みすぎないこと。蒸気の通り道を確保しなければ、中心部まで熱が行き渡らない。八十度以上を十分間以上——これが消毒の条件だ。


「おはようございます」


店の裏口から、若い男の声が聞こえた。一刀は振り返らずに答えた。


「おう。早いな、ハジメ」


刈上げハジメ。理容学校の二年生で、この店で実習を行っている十九歳の青年だ。寝癖がついたままの髪を気にする様子もなく、ハジメは作業場に入ってきた。


「あの、今日もよろしくお願いします」


「まず自分の頭をなんとかしろ。理容師が寝癖つけたまま店に立てるか」


「す、すみません!」


慌てて洗面台に駆け寄るハジメの背中を見ながら、一刀は小さく息をついた。不器用で、要領が悪くて、何をやらせても時間がかかる。だが、この青年には妙な誠実さがある。技術は教えれば身につく。しかし、客の髪に触れる者に必要な「真摯さ」だけは、教えて身につくものではない。


ハジメが髪を整えて戻ってくると、一刀は顎で床を示した。


「掃除からだ。昨日の毛が残ってる」


「はい!」


ハジメは箒を手に取り、理容椅子の周りを掃き始めた。一刀は彼の動きを横目で観察しながら、紫外線消毒器の中にハサミとクシを並べていった。


理容師法では、免許を持たない者が客に対して施術を行うことは厳しく禁じられている。シャンプーですら、有資格者の監督がなければ許されない。ハジメにできるのは、清掃、道具の準備、タオルの洗濯——いわば「インビジブル・ワーク」だけだ。それでも彼は文句一つ言わず、毎朝この店に通ってくる。営業時間外に練習用のウィッグでハサミの使い方を学び、一刀の施術を食い入るように見つめている。


かつての自分もそうだった、と一刀は思う。父の背中を見て育ち、この店を継ぐことだけを考えて生きてきた。四十年近い人生で、他の道を歩もうと思ったことは一度もない。


「神楽さん」


「なんだ」


「俺、いつかこの店みたいな理容室を持ちたいんです」


一刀は手を止めた。ハジメは箒を握ったまま、真剣な目でこちらを見ていた。


「こういう、ちゃんとした店っていうか……古くて、でも清潔で、技術があって。今どき流行らないかもしれないけど、俺はこういう店がいいんです」


「……馬鹿言ってないで手を動かせ」


一刀は紫外線消毒器の蓋を閉めた。二十分間の照射で、器具の表面についた細菌は死滅する。ただし、影になった部分には紫外線が届かない。だから器具は重ねずに並べる必要がある。


午前九時を回った頃、表のドアベルが鳴った。


「おはようございまーす」


明るい声と共に、若い女性が店内に入ってきた。艶のある黒髪をポニーテールにまとめ、シンプルなワンピースを着こなしている。蒸野タオル、二十八歳。この店の常連客だ。


「蒸野さん、予約は十四時ですよ」


「わかってますって。今日は早めに来て、ハジメくんの成長を見届けようかなって」


「邪魔しに来たの間違いだろ」


「ひどーい」


蒸野は笑いながら待合のソファに腰を下ろした。彼女がこの店に通い始めたのは三年前のことだ。当時、彼女は肌荒れに悩んでいた。化粧品を変えても改善せず、皮膚科に通っても効果がない。藁にもすがる思いで訪れたのが、この「床屋・神楽」だった。


理容室の顔剃りは、美容室にはない独自のサービスだ。法律上、剃刀を扱えるのは理容師だけ。女性向けの「レディースシェービング」は、産毛を除去し、古い角質を優しく取り除くことで、肌のターンオーバーを促進する。蒸野の肌荒れは、最初の施術から数週間で劇的に改善した。以来、彼女は月に二度、この店に通っている。


「ねえ神楽さん、今日のお昼どうします?」


「弁当持ってきてる」


「えー、せっかくだから一緒に食べましょうよ。ハジメくんも」


「俺、コンビニのおにぎりしか……」


「じゃあ私が何か買ってくる! リクエストある?」


一刀はため息をついた。蒸野タオルという女性は、どういうわけかこの古びた理容室を気に入っているらしい。客としてだけでなく、まるで自分の居場所のように振る舞っている。最初は迷惑だと思っていたが、今では彼女の存在が店の空気を和らげていることを認めざるを得なかった。


午前十時、最初の客が来店した。佐藤老人だ。白髪を短く刈り込んだ頭、深い皺が刻まれた顔、しかしその目は若々しく輝いている。


「おう、一刀。今日も頼むよ」


「佐藤さん、いつもありがとうございます」


一刀は佐藤老人を理容椅子に案内し、首周りにネックペーパーを巻いた。その上からケープをかけ、襟元をクリップで留める。鏡越しに老人の表情を確認しながら、一刀はカウンセリングを始めた。


「今日はどうされますか」


「いつも通りでいい。すっきり短くな」


「かしこまりました。頭皮の調子はいかがですか? 前回、少し乾燥が気になるとおっしゃっていましたが」


「ああ、あれは良くなった。お前さんに教わった通り、シャンプーの後にちゃんと乾かすようにしたらな」


一刀は頷き、佐藤老人の髪に触れた。生え癖を確認し、毛量と頭の形を把握する。視診と問診——これがカウンセリングの基本だ。


シャンプー台に移動し、洗髪を行う。温度は三十八度。熱すぎれば頭皮を傷め、ぬるすぎれば汚れが落ちない。指の腹で頭皮を揉み出すように洗い、生え際はジグザグの動きで丁寧に泡立てる。耳に水が入らないよう、片手でカバーしながらシャワーを当てる。


理容椅子に戻り、カットを開始する。クシで髪を梳かしながら、ハサミを入れる位置を決める。ブラントカット——髪をパネル状に引き出し、刃を真横に入れて切り口を揃える。これが全ての土台となる基本技術だ。


佐藤老人は目を閉じ、静かに身を任せている。一刀のハサミが奏でる規則的な音だけが、店内に響いていた。


「一刀」


「はい」


「お前さんの親父も、じいさんも、同じように切ってくれたもんだ」


「……そうですか」


「この店はいい店だ。変わらないところがいい」


一刀は黙ってハサミを動かし続けた。変わらないこと。それが良いことなのかどうか、自分でもわからない。時代は変わり、街も変わり、理容業界を取り巻く環境も激変している。大型チェーン店が増え、千円カットの店が乱立し、若者は美容室に流れていく。「床屋・神楽」のような古い個人店は、絶滅危惧種のようなものだ。


それでも一刀は、この店を続けている。父から受け継いだ技術を、祖父から伝わる哲学を、曾祖父が築いた信頼を——何一つ失いたくなかった。


カットを終え、シェービングに移る。蒸しタオルを佐藤老人の顔に当てる。自分の手首の内側で温度を確認してから、慎重にタオルを広げた。鼻の穴だけを開け、顔全体を包み込む。熱と湿気が髭のケラチンタンパク質を膨潤させ、軟化させる。この工程を省くと、剃刀が髭に引っかかり、肌を傷つける原因になる。


シェービングブラシに泡立てた石鹸を含ませ、顔に塗布する。剃刀を手に取り、刃を頬に当てる角度を測る。二十度から三十度。それ以上立てれば肌を切り、それ以下に寝かせれば剃れない。


左手の指で皮膚を引っ張り、平らにする。「張り手」と呼ばれるこの技術が、プロの剃りの核心だ。テンションをかけることで、刃が皮膚に食い込むのを防ぎ、産毛まで根元から剃ることができる。


順剃りで毛の流れに沿って刃を走らせる。次に、必要に応じて逆剃りで深剃りを行う。佐藤老人の顔に残った泡を拭き取り、冷たいタオルで毛穴を引き締める。最後に保湿ローションを塗布し、肌のpHバランスを整える。


「ありがとうよ、一刀。今日もいい仕事だ」


「ありがとうございます」


佐藤老人が帰った後、一刀は使用した器具を洗浄し、消毒の工程に回した。ハジメが落ちた髪を掃き集め、蒸野がコーヒーを淹れてきた。


「神楽さん、本当に丁寧ですよね。見てて惚れ惚れする」


「当たり前のことをしてるだけだ」


「その『当たり前』ができない人が多いから、この店は特別なんですよ」


一刀は答えなかった。特別かどうかはわからない。ただ、自分にはこれしかできない。この店で、この技術で、目の前の客を綺麗にする。それだけのことだ。


午後の施術を終え、日が傾き始めた頃、蒸野のレディースシェービングが終わった。


「あー、やっぱり神楽さんの施術は最高。肌がつるつる」


「次は再来週でいいですか」


「はい、よろしくお願いします」


蒸野が帰った後、ハジメと二人で閉店作業を行った。器具の最終消毒、床の清掃、タオルの洗濯。サインポールの電源を切り、看板の明かりを消す。


「お疲れ様でした、神楽さん」


「ああ。明日も六時に来いよ」


「はい!」


ハジメが裏口から出ていくのを見送り、一刀は店内に一人残った。


静寂が降りてくる。百年の歴史を刻んだ理容椅子が、薄暗がりの中で沈黙している。壁の鏡が、疲れた自分の顔を映している。三十八歳。独身。この店と理容師の仕事だけが、自分のすべてだった。


それでいい、と一刀は思った。


明日も同じ朝が来る。同じように剃刀を研ぎ、消毒を行い、蒸しタオルを準備する。客が来て、髪を切り、髭を剃る。そうやって、この店は百年を超えていく。


一刀は最後に店内を見回し、電気を消そうとした。


その時だった。


店全体が、白い光に包まれた。


「なんだ——?」


眩しさに目を細める。光は壁からも、床からも、天井からも溢れ出している。まるで店そのものが発光しているかのように。


地鳴りのような音が響いた。足元が揺れる。一刀は理容椅子の肘掛けを掴み、身体を支えた。


光が一層強くなる。視界が白に塗りつぶされていく。


最後に聞こえたのは、どこか遠くから響いてくる、聞いたことのない言葉だった。


——選ばれし者よ。穢れを祓う刃を持つ者よ。


そして、意識が途絶えた。


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