第9話 暖かい呪い
喉が、焼けるように乾いている。
重い瞼を押し上げると、段ボールで塞がれた窓の隙間から、不自然なほど白い光が漏れていた。
意識が混濁している。自分が今、どこにいるのかを一瞬忘れるほどの深い眠りだった。そうだ、今日は、詩音ちゃんと一緒にここを出る日だ。
「……詩音、ちゃん。朝だよ……行こう……」
隣に手を伸ばす。けれど、そこに触れた指先から伝わってきたのは、期待していた柔らかな体温ではなく、凍りつくほど冷たくなった「ぬけがら」の感触だった。
「え……?」
飛び起きた私の目に飛び込んできたのは、ベッドの上で静かに横たわる詩音ちゃんの姿だった。
彼女の顔は、昨夜と変わらず穏やかに微笑んでいる。けれど、その胸はもう二度と上下することはない。
詩音ちゃんの唇は、まだ少しだけ艶が残っていた。
眠っているみたいだ、と思った瞬間、なぜか私は「砂糖の致死量」という言葉を思い出した。
どれくらい甘ければ、人は死ぬんだろう。
そんなこと、今まで一度も考えたことがなかったのに。
昨夜、彼女が飲み込んだのは、白くて、丸くて、ドラッグストアの棚で「安心」の顔をして並んでいたものだった。枕元には、私が彼女に渡した睡眠改善薬の、空になったシートがいくつも散らばっていた。
一錠ずつ、彼女は私が眠っている間に、マシュマロでも食べるような無邪気さで「死」を飲み込み続けたのだ。
「詩音ちゃん? 冗談、だよね……? 一緒に行くって言ったじゃない。約束、したじゃない……!」
呼吸が乱れる。詩音ちゃんは神様なんだ。私を置いて死ぬわけなんかない。私は慌てて彼女の肩を揺さぶる。けれど、返ってくるのは不自然な重みだけだ。
その時、彼女の握りしめていた右手の指から、一枚のルーズリーフが滑り落ちた。
それは、優等生だった私の筆跡を執拗に模倣した、けれど決定的に残酷な「愛の遺書」だった。
『これを読んでいる誰かへ。
皆口詩音が、すべてを仕組んだ。奏を洗脳し、あの階段の事故を「殺人」だと思い込ませ、自分を隠匿させたのは私だ。彼女はただ、私の筋書き通りに動かされただけの、心優しい、可哀想な人形に過ぎない。
奏、ごめんね。あなたを私の「物語」に巻き込んで。でもこれで、あなたは自由になれる。私の「被害者」として、また普通の女の子に戻ってね』
殴り書きされたその文字を追いながら、私は叫ぶこともできずに喉を鳴らした。
違う。そうじゃない。
彼女は、自分がすべての罪を被って死ぬことで、私の未来を真っ白に浄化してあげようとしたのだ。
それが、彼女なりの「お返し」だった。
私を潔白にするために、彼女は自ら命を絶った。その「偽りの救済」を完成させるために、私はこれから一生、彼女という巨大な呪いを抱えて生きていかなければならない。
私に「潔白」という役割を与え、自分は「死」という特等席に逃げ込む。
まるで呪いみたいだ。
私は一生、彼女のことを忘れられない。
誰と出会っても、どんな人生を歩んでも、私の心の中心には、私を救うために死んだ、聖女のような詩音ちゃんが居座り続ける。
「……ずるいよ。こんなの、ずるすぎるよ、詩音ちゃん……っ」
私は、冷たくなった彼女の体を抱きしめ、枯れ果てた声で泣いた。
彼女が欲しかったのは、二人での逃避行なんかじゃなかった。
自分のいない世界で、一生、自分を想って壊れ続ける「私」の姿だったのだ。
まるで壊れたオルゴールかのように私たちは噛み合わない。
その時、不意に玄関のチャイムが鳴った。
何度も、何度も。逃げ場のなくなった現実が波のように寄せては返す。ついにこの部屋の扉を壊さざるを得なくなった。
「警察です。大学から連絡のあった奏さんですね? 中に誰かいるのは分かっています、開けなさい」
揺れる視界の中、私は、彼女が命を懸けて完成させた「不在証明」の紙を握りしめ、静かに笑った。
ああ、詩音ちゃん。
あなたの勝ちだよ。
私は、あなたの望み通り、一生、この六畳一間から出られない。
社会に戻ったとしても、私の魂は永遠に、あなたの冷たい指先とこの整いきった甘い匂いのする部屋に繋がれたままだ。
私はゆっくりと立ち上がり、段ボールで塞がれた窓に手をかけた。
一枚、また一枚。ガムテープを剥がしていく。
部屋に流れ込んできたのは、眩しすぎて吐き気のするような、現実の光だった。
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