第8話 砂糖漬けの安寧
「明日には、すべてが変わる」
その言葉は、暗闇の中で唯一灯された松明のように、私の思考を支配した。
窓を塞ぐ段ボールは、もはや私たちを閉じ込める壁ではない。外界という名の汚泥から私たちを守る、世界で最も頑丈な城壁へと姿を変えていた。
私は、詩音ちゃんに促されるまま、ベッドに横たわった。
19歳の私の体は、自分が思っている以上に疲弊していたらしい。シーツに触れた瞬間、重力が何倍にもなったかのように、体が沈み込んでいくのを感じた。
「奏、これ、飲んで。……眠れないでしょう?」
詩音ちゃんが、コップ一杯の水と、数錠の白い粒を差し出してきた。
それは以前、彼女が「夜が怖くて眠れない」と怯えていたとき、私がドラッグストアを数軒回って買ってきた、市販の睡眠改善薬だった。
「これ飲んで、ゆっくり休んで。……明日からは、たくさん歩かなきゃいけないんだから。体力をつけておかないと、遠くまでは逃げられないよ。大丈夫、私も飲むから。」
彼女の指先が、有無を言わさずに私の唇をそっと割り、薬を滑り込ませる。
その仕草は、どこまでも献身的で、どこまでも優しかった。
私は疑うこともなく、彼女が差し出す「安らぎ」を水と共に飲み干した。
喉を通る水の冷たさが、心地よい。
「……詩音ちゃん。本当に、明日、一緒に行ってくれるの?」
「うん。約束する。……奏が私のヒーローでいてくれる限り、私はどこへだってついていくよ」
詩音ちゃんは私の隣に潜り込み、私の頭を優しく自分の胸元へ引き寄せた。
トク、トク、と、彼女の鼓動が聞こえる。
三年前の公園で、私のコートの中で震えていた鼓動よりも、ずっと力強く、規則正しい。
彼女は私の髪を指で梳きながら、静かな、けれどどこか葬送曲のような子守唄を口図さみ始めた。アイドル時代、バラード曲のカップリングに入っていた、小さな隠れた名曲だ。
その歌声は、目隠しをされたまま天国へ導かれているような、甘やかな麻痺を私にもららした。
「大好きだよ、奏。……あなたは、私だけのヒーローだもんね」
その言葉を最後に、私の意識は急激に深く、暗い底へと沈んでいった。
19年間積み上げてきた後悔も、大学の単位も、親への罪悪感も、すべてが暗転していく意識の端に追いやられていく。
明日には、光の射す場所へ行ける。
詩音ちゃんと二人で、誰も私たちを定義しない、汚れていない世界へ。
そんな子供じみた「仮初の希望」を、私は最後の一滴まで信じ切っていた。
意識が途切れる、その一瞬前。
私の頬をなぞる彼女の手が、微かに止まった。そんな気がした。
薄れゆく視界の中で、彼女の横顔が見えた。
それは、愛おしい人を見守る微笑みではなかった。
自分が完璧に書き上げた台本の、最終章の幕を下ろす直前の、冷徹で、賢明な演出家の顔。
彼女は、これから独りで向かう場所を見つめるように、塞がれた窓の向こうへ視線を投げていた。
そこには、私との逃避行など少しも含まれていない、彼女だけの「不在証明」への意志が、冷たく、白く、砂糖の塊のように凝固していた。
私は、それすらも「彼女なりの愛」だと誤認したまま、深い眠りの底へと墜ちていく。
換気扇が、静かに回っている。
明日。
明日になれば、すべてが終わる。
私は、幸せだった。
そう思わなければ、あまりに美しすぎる彼女の嘘に、耐えられそうになかったから。
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