第7話 氷の体温

 「まとも」であろうとすればするほど、世界との歯車が狂っていくのを感じる。

 私は今日も、朝一番に玄関のドアスコープを覗き、誰もいないことを確認してから、ユニットバスで紫音ちゃんのタオルを洗った。柔軟剤は、彼女がアイドル時代にSNSで「お気に入り」だと言っていた銘柄をわざわざ探して買ってきたものだ。


 この六畳一間を、彼女にとっての完璧な聖域にする。それが、今の私の唯一の社会的責任であり、私が私であるための最後の拠り所だった。

 大学のオンライン掲示板には、私の安否を問うメッセージがいくつか届いているはずだ。でも、もう確認することはない。スマホは洗剤のボトルで物理的に破壊し、今はゴミ箱の底で、かつての私の日常と共に沈黙している。

 

 19歳の私の未来を、私は自らの手で切り離した。その後悔がないと言えば嘘になる。けれど、目の前でマシュマロを頬張る詩音ちゃんの、透き通るような白い指先を見れば、そんな代償はあまりに安いものに思えた。

「奏。……ねえ、奏。これ、見て」

 詩音ちゃんが、ベッドの陰から這い出すようにして私を呼んだ。彼女の手には、私が見たこともない古いスマートフォンが握られていた。

「それ……どうしたの?」

「……ずっと、隠してたの。怖くて見られなかったんだけど……さっき、勇気を出してつけてみたの。そしたら……」

  彼女が差し出してきた画面を覗き込んだ瞬間、私の視界は白く弾けた。

 画面に表示されていたのは、ニュース記事やSNS、ネット刑事番のスクリーショットだった。

 私の顔写真付きの「不審者情報」。

 「皆口詩音を監禁している疑いのある人物」として、私の特徴が詳細に書かれている。

 さらに、詩音の捜索願のページ。ファンの涙のコメント。「詩音ちゃんを返して!」という叫び。

 でも、違和感があった。

 すべてのページが、オフラインで閲覧できるように保存されている。

 しかも、コメントの並びが不自然だ。

 一番上に固定されているのは、私を「凶悪な誘拐犯」と断罪するような、過激なものばかり。

 「……これ、どうやって?」

 詩音ちゃんは、私の疑問に答えるように、震える声で続けた。

 「私……怖くて、でも知りたかったの。外で、私のことどう思ってるか。……そしたら、こんな風にみんな怒ってる。私のせいで、奏がこんな悪者扱いされてる……」

 彼女は私の裾を掴み、泣きじゃくる。

 でも、私は気づいてしまった。

 このスマホ、Wi-Fiにもモバイルデータにも繋がっていない。

 なのに、最新の情報が保存されている。


 ――いつ、保存したんだろう。

 詩音ちゃんは、私が外に出ている間に、この古い端末で情報を集めていた?

 いや、それ以前に……。


 「あの階段の事故の後、私がパニックになってる間に……詩音ちゃんが、全部保存してた?」

 私の呟きに、詩音ちゃんは一瞬、目を伏せた。

 そして、ゆっくりと顔を上げ、涙で濡れた瞳で私を見た。

 「……ごめんね、奏。でも、これでわかったでしょ? もう、外には出られないよ。私たち、二人とも、もう普通には戻れない」

 その言葉は、悲劇のヒロインの台詞のように聞こえた。

 でも、彼女の指先が画面をスクロールする動きは、どこまでも冷静で、確信に満ちていた。

 彼女は、私に見せるために、わざと「一番残酷なページ」だけを選んで保存していた。

 私の罪悪感を、決して薄まらせないように。

 私を、この部屋に永遠に縛り付けるために。

 矛盾だらけの彼女の言葉が、魚の骨のように私の喉に詰まる。でも、それを飲み込まなければ、私はここに立っていられない。だから私は、自分の脳を騙すように、ただただ微笑んだ。

 

 三年前の冬の夜。公園のベンチで、街灯の下、一人でガタガタと震えていた詩音ちゃん。

 センターを外され、誰からも必要とされていないと絶望していた詩音ちゃん。

 私は自分のコートを脱いで彼女に着せ、その冷たい手を握り締めた。

 『私が、貴方の味方になるから。世界中の誰も信じなくても、私だけはあなたのヒーローになるから』

 あの時の私の誓いが、今のこの生活を、私のすべてを支えている。

 

「大丈夫、詩音ちゃん。……3年前と同じく絶対に守るから。私が、絶対になんとかするから」

 私は彼女を安心させるために、努めて冷静な声を出した。何とかするなんて、絶対なんて約束できない言葉がスラスラと出てくる。

 優等生だった私の脳が、必死に「正解」を導き出そうと回転を始める。けれど、詩音ちゃんは私の目を見つめながら、ふっと、場違いなほど美しい聖母のような笑みを浮かべた。

「ねえ、奏。……あの公園のこと、まだ覚えてるんだ」

「忘れるわけないよ。私の人生が変わった日だもん」

「ふふ。……あのね、奏。……私、あの時、本当は一人じゃなかったんだよ」

 その言葉を聞いた時、心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。詩音ちゃんの声は、これまで聞いたことがないほど冷ややかで、透き通っていた。

「あのね。実はあの日、事務所のスタッフが、すぐ近くの車の中で見てたの。『悲劇のヒロインが、熱狂的なファンに慰められる図』って。そういうのってみんな好きでしょう?SNS映えするし。だから、私はただ寒さに震える演技をして、誰か『ちょうどいいヒーロー』が来るのを待ってただけなんだよ」

 とっておきの秘密を教えてくれる幼子のように詩音ちゃんは告げた。


 耳の奥で、キーンという耳鳴りがした。

 ――何を、言っているの?

 口の中が一気に乾燥したのを感じた。

 

「でもね、奏。来たのがあなたで、本当に良かった。あなたは私の想像以上に純粋で、想像以上に私のために壊れてくれたから。あの日、私を救ってくれた時と同じ顔で、今、私を監禁してくれてる」

 詩音ちゃんの手が、私の頬をなぞる。その体温は、あの日公園で触れた時と同じように、凍りつくほど冷たかった。

 三年前のあの救済さえも、彼女が描いたシナリオの一部だった。私が「正義」だと信じて積み上げてきた全ての行動は、彼女という偶像を輝かせるための小道具に過ぎなかったのだ。

「奏……もう、逃げ場なんてないよ。開けたら、私は被害者に戻って、あなたはただの犯罪者になる。……ねえ、最後まで私を『守って』よ。私のために、この物語を完結させて」


 彼女は、台所から持ってきた一番大きなナイフを私の手に握らせた。

 私は、震える手でそれを見つめた。外の世界に、この部屋の「真実」を見せるわけにはいかない。彼女がそれを望まないのなら、私はこの聖域を、永遠の沈黙で満たすしかない。私が私の喉を裂くか、それとも彼女を……。

「……分かったよ、詩音ちゃん。……私が、完結させてあげる」

 私がナイフを握り締めた、その時だった。

 詩音ちゃんが、背後から私を強く、壊れ物を扱うような手つきで抱きしめた。

「……冗談だよ、奏。死ぬなんて、まだ早いよ」

 耳元で、蕩けるような甘い声がした。

「ねえ、奏。私、今、本当のことに気づいちゃった。あの日、公園で私を見つけてくれた時から、私を本当に愛してくれたのは、世界中であなただけだったんだって。だから、明日、ここを出よう。二人で、誰も知らない遠い街へ行くの。警察なんて、私が全部、うまくやるから。……ねえ、一緒に逃げよう?」

 囁くように耳元で詩音ちゃんが話す。

 その瞬間私は、彼女の腕の中で子供のように泣きじゃくった。

 張り詰めていた理性が、安堵という名の泥に溶けていく。

 

「……本当? 本当に、明日、二人で行けるの?」

「うん。約束するよ。だから今日は、もう寝よう? 明日の朝、目が覚めたら、新しい人生を始めようね」

 私は、彼女が私のために用意した「嘘の希望」を、致死量の砂糖のように飲み込んでしまった。

 彼女の腕の中で、私は、生まれて初めて本当の「救い」に出会ったような心地がしていた。

 それが、彼女による最後にして最大の「演出」であるとも知らずに。

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