第6話 清潔な泥沼
ふと、視界の端で何かが動いた気がして、私はレポートの続き、を書くはずだった真っ白なルーズリーフから顔を上げた。
窓を塞いだ段ボールの端に、小さな虫が這っていた。
どこから入り込んだんだろう。私はそれをそっとティッシュで包み、ゴミ箱へ捨てた。あの日から、こうした些細な「外の気配」に、過剰なほど敏感になっている自分に気づき、心臓が少しだけ、速く脈打った。
携帯を壊してから今日が何曜日なのか、意識しないとすぐに忘れてしまいそうになる。
見る度にタイムリミットを迫られている気がしてカレンダーは捨ててしまった。
大学の抗議には、もう一週間近く出ていない。真面目だけが取り柄だった私が、無断欠席を続けている。その事実が、時折、冷たい水のように背筋を駆け抜ける。
けれど、私は自分に言い聞かせる。これは「サボり」じゃない。詩音ちゃんという、一人の人間の命を守るための、緊急避難なんだと。私以外の誰が詩音ちゃんを救ってあげられる?否、私しかいない。
私はルーズリーフに向き直る。そこには、詩音ちゃんの体調や、今日食べたものの記録が几帳面な字で並んでいる。19歳の私が今できる、精一杯の「正しい管理」。
教授に提出するはずだった心理学のレポートよりも、今の私にはこの「観察日記」の方が、よっぽど価値のある仕事に思えた。
「奏、あんまり詰めすぎないで。……大学、大丈夫なの?」
ベッドの上で、詩音ちゃんが気遣わしげな声を出す。
彼女のその私を気遣ってくれる一言だけで、私の胸のつかえが少しだけ軽くなる。
「大丈夫だよ、詩音ちゃん。……今は、あなたの安全が最優先だから。落ち着いたら、ちゃんと戻るよ。レポートだって、遅れても出せば評価はもらえるし」
嘘だった。戻れる保証なんて、どこにもない。
学費を払ってくれている両親の顔が浮かぶ。親とは週に2度定期連絡を取っていたが、携帯がないので返事を返せていないのだ。
彼らは今頃、私の安否を心配しているだろうか。それとも、単なる反抗来だと思っているだろうか。
一瞬だけ、胃のあたりが重くなるような罪悪感に襲われる。
でも、詩音ちゃんの潤んだ瞳を見れば、そんな悩みはすぐに霧散した。
私たちが選んだこの道は、きっと、いつかどこかで「正解」に繋がっているはずだ。そう信じなければ、立ち上がることさえできなくなる。
「奏は、本当に優しいね。……私、あなたの人生をめちゃくちゃにしてるんじゃないかな」
「そんなことないよ。私が勝手に決めたことなんだから詩音ちゃんは気にしないで」
私は、汚れを落とすために洗面所へ向かった。
まだ狂ってはいない。ただ、少しだけ清潔さにこだわりたくなっただけだ。
指先の腹が、摩擦で少し赤くなっている。
あの日、階段で男の腕を掴んだときの感覚が、時折、右手に蘇る。それを消し去るために、石鹸を泡立てる。
――私は間違っていない。
――彼女を救うことが、今の私の「正義」なんだ。
自分を説得するように、何度も何度も手を洗う。
これは強迫観念なんかじゃない。ただの、几帳面なだけ。
「……奏、外で……何か音がしない?」
詩音ちゃんが、ふいに声を低くした。
私は動きを止め、耳を澄ます。
遠くで、誰かが笑っている声。車のタイヤがアスファルトを擦る音。焼き芋屋の屋台の音。
日常の音が、まるで私たちの密室を暴こうとする呪いかのように聞こえた。
私は慌てて、洗面台の蛇口を全開にした。
水の流れる轟音が、外界との境界線を物理的に引き直してくれる。
「大丈夫だよ、詩音ちゃん。……何があっても、私が、あなたを守るから。……ねえ、もう少し事態が落ち着いたら、二人で遠いところへ旅行にでも行こうね。そこで、全部やり直そう」
私の吐いた言葉は、自分でも驚くほど「まとも」に響いた。
それは、平凡な19歳の女の子が抱く、あまりにもささやかで、けれど実現不可能な「仮初の希望」だった。
詩音ちゃんは、返事をしなかった。
ただ、洗面所の鏡越しに、私をじっと見つめていた。
その瞳には、私の期待した安らぎなど一欠片も映っていない。
彼女は、一歩引いた特等席から、私が必死に「まともな自分」を演じながら、少しずつ泥沼に足を取られていく様子を、静かに観賞していた。
鏡の中の私は、少し窶れてはいるが、まだ、どこにでもいる女子大生の顔をしていた。
けれど、その輪郭は、換気扇を止めた部屋の熱気で、じわじわと歪み始めていた。
私は、幸せだった。
そう思わなければ、19歳の私の心臓は、今すぐこの肋骨を突き破って、外の冷たい空気の中に飛び出していってしまいそうだったから。
―――
とりあえず書き溜めていた文を置いておきます。次の更新は明日の夕方くらいに出来たらな、と考えていますのでぜひ読んでいただけると嬉しいです!
また、☆や♡、作品のフォローをしてくださった方、本当に本当にありがとうございます……!!
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