第5話 ノイズの海

光を殺し、音を殺し、唯一残った私たちの呼吸音だけが部屋に嫌に響く。

 窓を覆い尽くした段ボールの肌触りは、どこか質素な棺桶の内壁に似ている。私はその壁の端を、ガムテープで執拗に補強し続けた。重なり合うテープの厚みは、そのまま私の犯した罪の層だ。

 これでいい。ここには、もう、誰も、何も入ってこられない。ここは安全な箱庭だ。

 自分に言い聞かせるように脳内で反芻する。

 背後で、ベッドのスプリングが小さく軋む音がした。詩音ちゃんが姿勢を変えたのだ。私は彼女を振り返らない。今の私は、あまりに醜く汚れている。彼女という純粋な存在を汚さないために、私はこの暗闇の中で、外界を拒絶する「壁」そのものになるべきだった。

「ねえ、奏。さっきから、あなたのポケットの中で、誰かがずっと叫んでるよ」

 詩音ちゃんの声は、冷たく、澄んでいた。

 ハッとして、自分のポケットに触れる。機械的にリズムを刻むのは存在すら頭になかったスマホだ。

 ポケットから出すと画面から漏れる青白い光が、隙間なく塞いだはずの暗闇を一瞬で切り裂いた。

 

 画面に浮かんでいたのは、ゼミの教授の苗字だった。

 提出期限を過ぎたレポートの催促だろうか。あるいは、無断欠席が続いていることへの形式的な忠告。19歳の私が、あの日までの私が、必死に守り続けてきた「優等生」としての実績が、電波に乗って私を追いかけてくる。

 学費を払ってくれている親への申し訳なさ、積み上げてきた単位、将来への展望。

 そんな断片的に流れてくる記憶に頭が痛くなる。

 かつての私が人生のすべてだと思い込んでいたそれらは、今や羽虫の羽音よりも不快なノイズに過ぎなかった。

 そんな小さなカケラを拾い集めて、一体どこへ行こうというのか。

 私の人生は、あの日、階段から転落したあの男の衝撃音と共に、美しく完結してしまったのだから。

「……これ、捨てなきゃ。これが光るたびに、あなたの居場所が、外の汚い連中にバレちゃう。」

 詩音ちゃんにそう聞こえるように私は1人呟く。

 私はスマホを掴み、這うように洗面所へ向かった。

 詩音ちゃんは、追いかけてこない。ただ、暗闇の中からその鋭い視線だけで、私の背中を見守ってるいるのを感じる。彼女は、私が自らの手で唯一の現実との繋がりを断ち切る様子を、舞台袖から眺める演出家のように見守っている。

 洗面所の流しに溜めた水の中に、スマホを沈める。

 気泡が、最後のため息のようにボコボコと浮いては消えた。

 誰かが私を呼び、誰かが私を案じ、誰かが私を社会へと引き戻そうとしていた電子の信号が、水中で短絡し、永久に沈黙する。

 私は、その上からさらに、重たい洗剤のボトルを叩きつけた。ガラスが割れる音だけが洗面所に虚しく響く。

 

 これで、死んだ。

 私の社会的な死と引き換えに、詩音ちゃんの不在証明が、より強固なものへと昇華された気がした。

 

 部屋に戻ると、詩音ちゃんが、静かな微笑を浮かべて待っていた。

「おかえり、奏。……これで奏の事を理解してあげられるのは私だけになったね。」

 彼女は、自分がどれほど賢明な選択をしたか、その愉悦に浸っているようだった。

 自分の描いた悲劇のヒロインという台本を、19歳の私が忠実に、将来を切り売りしながら演じていることに、彼女は深い満足を感じている。


 私は彼女の足元に跪いた。

 換気扇を止めた部屋の空気は重く、薄い。

 けれど、その肺を灼くような苦しささえも、彼女と酸素を奪い合っているという特別な交わりに思えて、私は陶酔の中に溺れるように沈んでいった。

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