第4話 天使の不在証明(詩音視点)

石鹸と塩素の匂いが、肺の奥に薄く張り付いている。

 この六畳一間のワンルームに満ちているのは、奏が必死に掻き集めてきた「清潔」の残骸だ。

私はベッドの上で膝を抱え、洗面所で一心不乱に床を磨き続ける奏の背中を眺めていた。

(……ふふ。あんなに必死になって。可愛い)

 奏の頭の中には、今、どんな地獄が広がっているんだろう。

 あの日、雨の階段で、自分をストーカーから守ろうとして、勢い余って彼を突き飛ばしてしまったこと。男が音を立てて転落し、動かなくなったこと。

 奏はそれを、脳内で勝手に「取り返しのつかない大罪」へと肥大させている。

 本当は、知っている。

 あの階段の踊り場には、古ぼけた監視カメラが設置されていた。

 私が彼に詰め寄られ、奏がそれを助けようとして起きた不幸な事故。警察に行けば、奏は正当防衛か、あるいは過失致死で済んだはずだ。私は「命を救われた被害者」として、彼女の手を引いて警察に行けばよかった。

 でも、それじゃあつまらないじゃない。

 そんなことをすれば、私は数日後には「元・地下アイドルの被害者」という肩書きで、消費されるだけの存在になる。憐れみの視線に晒され、やがて忘れ去られる。

 そんなの、死んでも嫌。

 だから、あの時、腰を抜かして震える奏の耳元で囁いてあげたのだ。

『逃げよう。……二人で。捕まったら、死ぬしかないよ』って。

「ねえ、奏。……そんなに一生懸命にならなくても、私は逃げたりしないよ」

 私が声をかけると、奏は肩を跳ねさせ、這いつくばったまま振り返った。その顔は、睡眠不足と自責の念で酷くやつれている。

「ごめん、詩音ちゃん。……でも、綺麗にしておかないと。あなたが、あなたじゃなくなっちゃう気がして」

そう視線を下に向けたまま話す奏を見て昔のことを思い出した。


 私と奏の出会いは、三年前の夏の、ひどく蒸し暑いライブハウスだった。

 奏は、最前列の隅っこで、壊れ物を扱うような手つきで私のカラーのペンライトを振っていた。他のファンみたいに叫んだりしない。ただ、食い入るように私を見つめ、私が一歩動くたびに、まるで自分の魂が削られるみたいに苦しそうな顔をして。

 

 あの日から、この子は私の「悲劇」を見つけ出し、それを救うことで自分の存在意義を確かめたいだけの、重度の依存症だった。

 だから、私は彼女を選んだ。

 私が弱ってみせるたび、奏は「自分だけが詩音ちゃんを救えるんだ」という歪んだ全能感に酔いしれていった。あの、三年前の冬の公園で、一人でガタガタ震える私に自分のコートを差し出した時みたいに。

「奏は、あの日からずっと私のヒーローだもんね。……だから今回も、私を救ってくれたんだよね?」

「……! うん。そうだよ。私は、あの男から、詩音ちゃんを……」

「そう。だから、あなたがやってることは、全部正しいの。あなたが私をここに閉じ込めることも、あの日起きたことも……全部、私が『天使』でい続けるために必要なことだったの」

 奏の瞳に、熱い光が宿る。

 彼女は自分の「加害」を、私によって「救済」へと書き換えられた。

 

 奏。

 あなたは、私を助けた「救済者」になりたいんでしょう?

 いいよ。私が、世界で一番可哀想な「天使」になってあげる。

 私が一歩も外に出ずに閉じ込められているこの時間が、私の清廉潔白な「不在証明(アリバイ)」になる。

「……詩音ちゃん。あっちの窓、ガムテープで塞ぐね。パトカーの音が、さっきから聞こえる気がするんだ。光が入ると、詩音ちゃんが汚れちゃうから」

 奏が、新品のガムテープを取り出す。ベリッ、という剥離音だけが、静かな部屋に響く。

 窓枠のゴムパッキンの僅かな隙間も許さない。外の光が入ってくるということは、言い換えれば外から見られているということだ。

 奏は、一枚、また一枚と、何かに取り憑かれたように段ボールを窓に貼り付けていく。

 角を合わせる。空気を抜く。少しでも浮きがあれば、最初からやり直す。

 指先の腹が摩擦で赤く熱を持ち、爪の付け根から血が滲んでいるけれど、奏はそれに気づきもしない。

 

 ――飽きたな。

 

 私は、手元のマシュマロの袋を、指先でくしゃりと潰した。

 甘ったるい匂いが鼻について、少し吐き気がした。

 

 奏。

 ねえ、奏。

 次は、何を洗って、何を塞いでくれるの。

 換気扇が、ずっと回っている。

 

 この密室が、私をこの世で一番純粋な「被害者」として完成させていく。

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