第3話 砂糖の檻

外。外はだめだ。外は危険だ。

脳に緊急信号が走る。

 玄関のドアノブに手をかけるだけで、指先が壊死したように冷たくなる。

 一歩踏み出せば、そこは悪意に満ちた光の海だ。奏は深々と帽子を被り、マスクの布地が吸い付くほど激しく呼吸を繰り返した。ポケットの中には、詩音が書いた「買い物リスト」が入っている。

 それが、今の自分が外の世界へ踏み出すための、唯一の免罪符だ。

(あの日、私はただ、止めたかっただけなんだ。詩音ちゃんが、あの男に、泥のような汚い手で触れられそうだったから)

 脳裏に、湿った音がこびりついて離れない。

 ――ドサッ、という、重たい何かが硬い地面に叩きつけられたような音。

 気づいたときには、雨に濡れた階段の下に誰かが横たわっていた。どうしてそうなったのか。誰が、どんな風に手を伸ばしたのか。記憶の断片は、あの夜の豪雨に押し流されて、どうしても繋がらない。

 けれど、繋がらなくていい。

 真実なんて、知るのが怖い。

 駅前の大型ビジョン。そこに映し出されているのは、きっと彼女の姿だ。

 奏は、視線を地面に縫い付けた。呼吸が苦しくなる。

 見たくない。

 ニュースキャスターが、どんな厳しい顔で自分を断罪しているか。

 新聞のインクが、自分のしでかしたことをどんな汚い言葉で書き立てているか。

 そんなものを知ってしまったら、心臓が爆発して死んでしまう。

 奏は街を歩くとき、決して顔を上げない。

 テレビのある店先は全力で駆け抜け、コンビニでは雑誌コーナーを避けてレジへ向かう。

 世界が奏をどう定義しようと、そんなものはどうでもよかった。

 奏にとっての「世界」は、あの六畳一間のワンルームに座っている、白い少女だけなのだから。

(大丈夫。詩音ちゃんが、全部教えてくれる。彼女が言うことが、私の世界のすべてなんだ)

 コンビニのレジ。

 詩音に命じられた強力な漂白剤と、彼女が好む「汚れ一つない真っ白な」菓子を並べる。

 店員が袋に詰める手元を、見つめた。

 店員は、私の爪の間に残った「何か」を見てはいないだろうか。

 あの夜、必死に誰かの腕を押し返したときの、皮膚を裂くような、あの不快な感触。

 何度も何度も、皮が剥けるほど洗ったのに、まだそこには鉄の匂いが残っている気がする。

 店員が袋を差し出す。奏はそれを毟り取るように受け取ると、逃げるように店を出た。

 街頭で、誰かが叫んでいる。

「……詩音ちゃん!」「だれかこの女の子を見ていませんか!」

 ファンの叫び。祈り。

 奏には、それが自分を縛り上げる鎖の音に聞こえた。

 そうか。私は、連れ去ったんだ。

 彼女を。あんなにも光り輝いていた太陽のような人を、私の狭くて暗い部屋に、無理やり。

 世間が私をそう呼ぶなら、私はそうなのだろう。

 私は、詩音ちゃんの光を奪った、恐ろしい「誘拐犯」なのかもしれない。

 そうでなければ、詩音ちゃんがあんなに震えて、私に「隠して」なんて頼むはずがない。


日が沈む頃、私たちの箱庭に私は疲労感を滲ませて帰宅する。

「……奏。遅かったね。寂しかったよ」

 這うようにして戻った部屋。

 詩音は、テレビもつけず、カーテンも閉め切った真っ暗な部屋で膝を抱えていた。

 彼女は奏が買ってきた菓子には見向きもせず、ただ、奏が纏ってきた「外界の匂い」を、不快そうに、けれど確認するように嗅いだ。

「ねえ、奏。……外では、私の名前、どんな風に呼ばれてた?」

 奏は、詩音の足元に崩れ落ちた。

 本当のことは知らない。ニュースなんて一秒も見ていない。

 けれど、奏は詩音の顔色を伺いながら、絞り出すように答えた。

「みんな、詩音ちゃんを心配してる。……酷い犯人に、無理やり連れて行かれたんだって、みんなが泣いてた。ごめんね、詩音ちゃん。私のせいで、あなたは自由を奪われて……」

 奏の謝罪を聞きながら、詩音は暗闇の中で、ふっと口角を上げた。

 その笑みは、奏が犯した罪を祝福するようでもあり、馬鹿にするようでもあった。

「……そう。誘拐犯、なんだ。奏は。……私のことを、力ずくで奪って、ここに閉じ込めている、悪い人」

 詩音は、奏に直接触れようとはしない。

 まるで、奏という「罪人」に触れることで自分の純潔が汚れるのを恐れているかのように。

 けれど、その言葉だけは、毒針のように奏の鼓膜に刺さる。

「可哀想な私。それを隠し続ける、残忍な奏。……ねえ、奏。警察の人たちは、まだ私を探しているの? 私を助けようと、必死に走り回っているの?」

「……うん、きっとそうだよ。でも、私が絶対に、誰にも見つけさせないから。詩音ちゃんが外に出て、またあの男みたいな怖い目に遭うくらいなら、私、なんだってする」

 奏の言葉に、詩音はうっとりと目を細めた。

 奏がニュースを見ないことを、彼女は知っている。

 奏が、自分の言葉だけを命綱にして生きていることを、確信している。

「……いい子。じゃあ、その漂白剤で、もっと綺麗にして。あの夜、私が汚された跡を、あなたが全部消して。……そうすれば、私はいつまでも、あなたの腕の中で『助けを待つお姫様』でいられる」

 奏は、震える手で洗剤のボトルを握りしめた。

 詩音が自分を「被害者」の椅子に固定し、奏を「加害者」の檻に閉じ込めようとしていることなど、一欠片も疑わずに。

 奏は、必死に洗面台を磨き続けた。

 彼女を奪った自分。彼女を汚した世界。

 そのすべてを洗い流せるのは、自分しかいないのだと信じ込んで。

 

 背後で、詩音が奏の買ってきたマシュマロを一つ、口に運んだ。脳が痺れるほど甘い味。

 それは、奏が自分のために「汚れていく」様子を眺めながら味わう、最高のご馳走だった。



​───────​───────​─────── ここまで読んでくださってありがとうございます!

こちらの作品は深夜テンションで書き始めてしまいましたが、今のところ全10話構成を予定しています。

学生のため更新はゆっくりめになりますが、最後まで読んでいただけたら嬉しいです。

本日夕方頃にもう一話更新予定なので、引き続き読んでもらえたら励みになります。

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