第2話 白の洗礼
白上奏のワンルームは、狭くて、ひどく静かだった。
安物のカーテンの隙間から、明け方の青白い光が差し込んでいる。昨夜の豪雨が嘘のように、外の世界は無機質な静寂に包まれている。
奏は、部屋の隅で膝を抱えたまま、ただ呆然と自分の指先を見つめていた。
爪の間には、まだ赤黒いものがこびりついている。昨夜、あの男の腕を狂ったように引っ掻いた時の、皮膚を裂く生々しい感触。
(これのせいで、捕まる……。私が、詩音ちゃんの人生を壊したんだ)
恐怖で奥歯が鳴る。その時、ベッドの方で、微かに衣擦れの音がした。
「……奏。まだそんなところで震えてるの?」
詩音がシーツの中から、ひどく冷めた、けれど甘い声で言った。
彼女は起き上がると、乱れた髪をそのままに、ベッドに座って奏を見下ろす。
「その服、脱いで。早く」
詩音の指先が、奏のパーカーの袖を指した。そこには、昨夜の揉み合いで付着した男の脂か、あるいは雨に濡れた階段の泥か、黒ずんだ汚れがべったりと染み付いている。
「……それを、今すぐ塩素系の洗剤で洗って。洗面台も、さっきあなたが手を洗った時に男の『カケラ』が残ってるかもしれない。排水溝の奥まで、全部溶かしなさい」
「わ、わかった……。でも、詩音ちゃん。私、あそこに行くまで、カメラに映っちゃったかも。この引っかき傷だって……。もし警察が来たら……」
奏の不安を遮るように、詩音はふらりとベッドから降り、奏の前に跪いた。そして、震える奏の手を取る。
「大丈夫だよ。あなたはただの『心配性のファン』なんだから。事件が起きたってネットで見て、居ても立ってもいられなくて現場の近くまで行っちゃった……。そう言えば、カメラに映ってても不自然じゃないでしょ?」
詩音は奏の首に細い腕を絡ませ、耳元で残酷なほど優しく囁いた。
「ねえ、奏。あなたが頑張ってくれないと、私はどうすればいいの? ……私、このまま死んじゃうよ? あなたが完璧にやってくれたら、私たちは一生、この箱庭で一緒にいられるんだから」
「……うん。わかってる。私が、やるよ。詩音ちゃんのためなら、私……」
奏は、詩音に命じられるままに洗面台へと向かう。
自分を捨てて「皆口詩音」を救う。その使命感という名の毒が、奏の脳を麻薬のように痺れさせていた。
水音が響き始める中。
一人残された詩音は、奏が座っていた場所を冷ややかに一瞥し、枕元に隠していたマシュマロを一つ、ゆっくりと口に含んだ。
(……頑張ってね、奏。あなたが私のために汚れるほど、あなたは私から離れられなくなるんだから)
────────────────
洗面台に響く、暴力的なまでの流水の音。奏は、詩音に言われた通り、指先がふやけて白くなるまで石鹸で手を洗い、パーカーの袖を塩素系洗剤に浸した。ツンとした刺激臭が鼻を突き、涙が滲む。
(これでいいんだよね、詩音ちゃん……)
鏡に映る窶れた自分と向かい合いながら詩音に語りかけたが返事はなかった。
リビングに戻ると、詩音はベッドの上に座り、奏が昨日買ってきておいたビニール袋の中身をぶちまけていた。
マシュマロ、チョコレート、グミ。彩りの良い菓子の中に、奏が慌てて詰め込んだ安物の着替えが混じっている。
「ねえ、奏。……この服、かわいくない」
詩音が、奏が買ってきた量販店のTシャツを指先でつまみ上げ、ゴミを見るような目で床に捨てた。
「ごめん、夜中で……それくらいしか売ってなくて」
「ううん、いいの。奏が私のために選んでくれたんだもんね。……あぁ、でも、私、もう外には出られないんでしょ? なら、服なんていらないか」
詩音はふらりと立ち上がり、奏の足元に歩み寄った。そして、奏の腰に腕を回し、冷たい指先を自分の頬に当てる。
「奏の手、塩素の匂いがする。……私のために、汚れてくれた匂い」
うっとりと目を細める詩音の瞳は、まるで底のない沼のようだった。
奏の胸に、形容しがたい高揚感が広がる。自分を責める罪悪感と、詩音に必要とされている喜び。その二つが混ざり合い、脳が痺れる。
「ねえ、奏。ニュース、見た?」
詩音の言葉に、奏の肩が跳ねた。
「……ううん。怖くて、見れてない」
奏が首を振ると、詩音は手元のスマホの画面を、鏡のように奏の顔に向けた。そこには、昨夜の雨の階段がブルーシートで覆われている写真と、刺激的な見出しが躍っている。
「『地下アイドル・皆口詩音の熱狂的ファン、遺体で発見』……。殺人事件だって。犯人は逃走中。そして、現場にいたはずの私は、連れ去られて行方不明。――ねえ奏、見て。私のファンの人たち、SNSで発狂してるよ」
詩音は、まるでお気に入りの映画のレビューでも読むような、うっとりとした手つきで画面をスクロールさせた。
「奏、すごいね。あなたはただ人を殺しただけじゃなくて、世界中から私を奪っちゃったんだもん。今、この国で一番『可哀想な被害者』は、私なんだよ」
「奪った……? 違う、私は、詩音ちゃんを守りたくて……!」
「そう。守ってくれたんだよね。だから、あなたは責任を取らなきゃ」
詩音はスマホを放り出し、奏の喉元に、白く細い指をそっと添えた。そのまま、真綿で首を絞めるような柔らかさで囁く。
「私がこのまま見つからなければ、あの男を殺した犯人は、私を連れ去った『凶悪な誘拐犯』だってことになる。……世間はもっと私を可哀想がってくれるし、あなたは私だけのものになる。ねえ、最高だと思わない?だから……」
詩音は奏の耳たぶを甘噛みし、そのまま背筋が凍るような低い声で囁いた。
「もし、警察の人が来たら。……あなたは『何も知らないファン』を突き通してね。もしバレそうになったら、その時は……」
詩音は言葉を切り、奏の顔をじっと見つめた。
「……私、ひとりで死ぬから。奏を、人殺しの共犯になんてさせないよ」
奏の心臓が、激しく脈打つ。
「死ぬ」という言葉が、あまりにも軽く、美しく響いた。詩音は自分のために、死ぬ覚悟までしている。――そう思い込まされた奏は、彼女の首筋にすがりつき、泣きじゃくった。
「死なないで……! 私が、何があっても詩音ちゃんを隠し通すから! 一生、ここから出なくてもいいから……!」
奏の腕の中で、詩音は静かに口角を上げた。
奏には見えないその顔は、慈愛に満ちた聖母のようでもあり、獲物を追い詰めた獣のようでもあった。
「……約束だよ、奏。――じゃあ、ご褒美。マシュマロ、あーんして?」
奏は震える手で、袋から白い塊を取り出した。
それは、死と救済が混ざり合った、致死量の甘味だった。
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