シュガー・オーバードーズ
夏
第1話マシュマロの雨
地下アイドルのライブハウスという場所は、熱狂という名の泥沼だ。
湿った空気、安っぽい煙、そして数百人の男たちが放つ、剥き出しの欲望と汗の匂い。その濁流の中心で、皆口詩音(みなぐち しおん)は立っていた。
「もっと。もっと叫びなさいよ。そんなんじゃ、私の心には一ミリも届かないわ」
詩音がマイクに向かって言い放つ。毒を孕んだ美貌が、スポットライトに白く飛び、傲慢な笑みを浮かべる。彼女がリーダーを務める『リフレイン』というグループは、その過激な接触と詩音の「ドSキャラ」で、熱烈な、時に病的なまでのガチ恋勢を抱えていた。
男たちが獣のように吠える。床が振動し、空気そのものが熱で歪む。
だが、詩音の心は、ステージの床を叩く照明と同じくらい冷え切っていた。
(ああ、気持ち悪い……)
握手会で握る、湿った手のひら。身だしなみなんて気にしない男ども。SNSに並ぶ、自分を所有物だと思い込んだ妄執。ファンレターに綴られた、おぞましい愛の告白。
二十一歳の詩音にとって、アイドルとは「完璧な嘘」を売る商売だった。中身なんて何もない。自分という存在を、誰かが望む「理想の女の子」という空気で膨らませ、マシュマロのように白くて甘い幻影を見せているだけ。
そんな砂上の楼閣のような日々の中で、たった一人。
フロアの最前列でも、騒がしい中心部でもなく、常にスピーカーの影に隠れるようにして立つ、一人の少女だけが異質だった。
白上奏(しらかみ かなで)。
十九歳の大学生だという彼女は、他の誰とも違った。
彼女は詩音を求めていなかった。詩音に自分を認めてほしいとも、自分だけのものにしたいとも言わなかった。ただ、壊れ物を扱うような、あるいは夜空に浮かぶ遠い星を仰ぎ見るような、あまりにも純粋な、透明な瞳で詩音を見つめていた。
(……あの子だけは、私の『嘘』を信じてる。それも、私以上に)
詩音は、奏と目が合うたび、胸の奥を鋭い針で突かれるような感覚を覚える。
あの子の前でだけは、毒を吐くことも、傲慢に振る舞うことも、指先が震えるほど難しくなる。汚してはいけない、触れてはいけない。けれど、自分の内側にあるどす黒い虚無を、すべて彼女の中にぶちまけて、その透明な瞳を絶望で染めてみたいという、形容しがたい欲望も同居していた。
───本日の公演は終了しました! 物販に移りますので───
アナウンスが流れ、喧騒が日常へと引き戻されていく。
楽屋に戻った詩音は、鏡に映る自分の顔を見た。メイクという嘘で塗り固めた、アイドルの顔。
ふと、スマホをチェックする。タイムラインには、数日前からくすぶっている不穏な噂が、さらに炎上を広げていた。
『リフレインの詩音、深夜に男と歩いてるの見たわ』
『どうせ今のポジションも枕営業でもして手に入れたんだろ』
『ガチ恋営業しておいて彼氏持ち? 騙された。死ねよマジで』
デマだ。
しかし、地下アイドルのファンにとって、真実など重要ではない。彼らが求めているのは、自分たちが捧げた金と時間が裏切られていないという保証だけだ。
詩音は溜息をつき、お気に入りのマシュマロを一つ口に放り込んだ。
甘い。そして、噛めば噛むほど空虚だ。
「詩音先輩、今日もあの人が来てます。ほら、ストーカーの……」
後輩のメンバーが怯えた声で囁く。詩音は視線を外へ向けた。
佐藤という三十四歳の男。彼は、かつて詩音に一番多額の金を落としていたファンだった。だが、この「彼氏疑惑」が出てから、彼の愛は完全に反転し、どろりとした殺意に変質していた。
今日も、出入り口の暗がりに彼が立っているのがわかった。
(……終わらせなきゃ)
何かが、詩音の中で音を立てて崩れた。
アイドルとしても、人間としても。これ以上「嘘」を続ける気力は残っていなかった。
詩音はバッグを掴むと、スタッフの制止を振り切って、あえて一人で通用口から外へ出た。
雨が降り始めていた。
冷たい飛沫が頬を叩く。
しかし傘をさす気にはなれない。
背後から、じりじりと迫る足音。振り返らなくてもわかる。佐藤だ。
詩音は、わざと人通りの少ない、街灯の壊れた非常階段へと足を向けた。
ここで殺されるなら、それでもいい。いや、むしろそれがいい。自分の人生というアイドルステージの、最悪で最高のエンドロールとして。
「詩音……。お前、俺を裏切ったんだな」
階段の踊り場で、佐藤が声を荒らげた。手には、鈍く光る折り畳みナイフ。
詩音は逃げなかった。ただ、静かに彼を見据える。
「裏切るも何も勝手に私に夢を見たあなたが悪いんでしょ?……おじさん、キモいよ」
最期のファンサービスとして、最大限の毒を吐く。
佐藤の顔が怒りで赤黒く染まり、ナイフを振り上げた。
詩音はゆっくりと目を閉じる。
——だが、衝撃は来なかった。
「やめて、詩音ちゃんに触らないで!!」
鋭い叫び声とともに、小さな体が詩音の横を通り抜けた。
奏だった。
奏は、雨に濡れて乱れた髪のまま、必死の形相で佐藤に体当たりをしていた。
非力なはずの少女の、執念だけを燃料にした突撃。佐藤は意表を突かれ、バランスを崩した。
「うわっ……!」
踊り場は狭く、雨で滑りやすくなっていた。
奏が佐藤を押し戻そうと両手を突き出した瞬間、佐藤の足が階段の縁を外れた。
スローモーションのように、男の体が宙に浮く。
そのまま、佐藤は頭からコンクリートの地面へと叩きつけられた。
グシャッ、という、果物が潰れたような生々しい音がした。
雨音だけが、不自然なほど大きく聞こえる。
詩音は、柵越しに下の地面を見下ろした。佐藤はピクリとも動かない。首が妙な方向に曲がり、赤い液体が雨水に混じって広がっていく。
「あ……、あ、あ……」
奏が、自分の両手を見つめながら、その場にへたり込んだ。
彼女の指は、ガタガタと震えている。瞳からは光が消え、底知れぬ恐怖がその小さな体を支配していた。
詩音は、その光景を静かに見ていた。
(……ああ、あの子が。私を『神様』だと思っていた、あの子が。私のために、人を殺した)
その瞬間、詩音の心の中に、今まで感じたことのないほど熱く、どろりとした甘美な感情が湧き上がった。
それは愛などという綺麗なものではない。
自分を助けてくれたことへの感謝でもない。
——優越感だ。
自分という「嘘」のために、一人の純粋な少女が人生を捨てた。
あの子の綺麗な手は、もう二度と元には戻らない。
あの子の人生を、私という嘘に塗れた怪物が、完膚なきまでに破壊してしまった。
(……素敵。ねえ、奏。あなた、私なしではもう生きていけないね)
詩音はゆっくりと、奏の隣に膝をついた。
そして、震えるその肩を、世界で一番優しい母親のように、あるいは生贄を慈しむ死神のように、そっと抱きしめた。
「奏……。大丈夫だよ。奏は、私を守ってくれたんだもんね」
詩音の声は、甘く、子供のように純粋な響きを帯びていた。
奏を地獄へ引きずり込むための、新しい「嘘」の始まりだった。
「ねえ、奏。私を、あなたの家に連れて行って? 私また殺されるかもしれないって考えたら怖いの。それに奏もこんな事しちゃったし早くここから逃げないと、でしょ?」
奏は、涙でぐしゃぐしゃの顔を上げ、詩音の瞳を見た。
そこには、自分を包み込んでくれる、たった一つの、温かな「嘘」があった。
「……はい、詩音ちゃん。私、どこへでも……」
雨の階段で、二人は固く抱き合った。
足元にある死体も、明日から始まる逃亡生活も、何もかもが、二人だけの「純愛」を完成させるための小道具に過ぎなかった。
詩音は、奏の耳元で微笑む。
(奏、ありがとう。私を殺すのは、あの男じゃなくて、あなたでなきゃいけなかったんだわ)
奏の罪を、いつか私がすべて背負って死んであげる。
その時、奏。あなたは私の死を、自分のせいだと思って、一生抱えて生きていくの。
私の死という「枷」をはめて、一生、私以外の誰にも触れられないように。
それは、壊れてしまった悲しいアイドルが、自分を愛してくれた唯一のファンに捧げる、最期で最悪の「ファンサービス」だった。
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