第6話 名前のついた不安
それは、ニュースとして流れてきた。
朝のテレビをつけたまま、ネクタイを締めていると、アナウンサーが淡々とした声で言った。
「――若年層の未婚率の上昇を受け、新たなパートナー関係支援制度について、自治体レベルでの導入が検討されています」
画面の下に、小さくテロップが出る。
「意思表明制度(仮)」
恒一は、手を止めた。
内容は、詳しく聞けば複雑だった。
一定期間ごとに、結婚や同居に関する意思を確認し、双方の認識のずれを減らすことを目的とした制度。強制力はない。あくまで、可視化のための仕組みだという。
「便利なのか、不便なのか、よくわかりませんが――」
コメンテーターの声を、恒一は最後まで聞かなかった。
テレビを消し、玄関を出る。
頭の中に残っていたのは、「意思を表明する」という言葉だけだった。
会社に向かう途中、その言葉が何度も反芻される。
意思。
表明。
どちらも、これまで避けてきた行為だった。
昼休み、同僚との何気ない会話の中でも、その話題は出た。
「なんかさ、決めさせられてる感じしない?」
「でも、ずっと曖昧なのもしんどいよね」
軽い調子のやり取りだった。
誰も真剣ではない。
だからこそ、恒一の胸には、妙に重く残った。
――決めさせられている。
その言葉に、反発を覚える一方で、別の感情もあった。
――もう、決めないままではいられない。
それは、制度が始まるからではない。
制度という言葉が、自分の中にあった不安に、名前をつけただけ
だということを、恒一はうすうすわかっていた。
その夜、帰宅すると、美咲はソファに座っていた。
スマートフォンを見ていたが、恒一に気づくと顔を上げた。
「おかえり」
「ただいま」
少し間があってから、美咲が言った。
「今日さ、ニュース見た?」
心臓が、一拍遅れて動いた。
「……ああ、あの制度の話?」
「うん」
それ以上、美咲は何も言わなかった。
感想も、意見も、求めてこない。
ただ、話題として共有しただけ。
それなのに、恒一はわかってしまった。
これは、雑談ではない。確認でもない。ましてや、要求でもない。
「この話題を、無関係ではいられなくなった」という合図だ。
「どう思う?」
美咲がそう聞いたとき、恒一はすぐに答えられなかった。
賛成か、反対か。
便利か、不便か。
どれも、的外れな気がした。
「……分からない」
そう言うのが、精一杯だった。
美咲は、うなずいた。
「私も」
その返事に、安心と、それ以上の不安が同時に湧いた。
二人とも、分からない。
しかし、分からないままでいられる時間が、確実に減っている。
その事実だけが、はっきりと共有されてしまった。
その夜、恒一は布団に入りながら、朝に聞いた言葉を思い出していた。
意思を、表明する。
彼はようやく理解し始めていた。
問題は、意思を問われることではない。
あのときの自分は、失う可能性ではなく、失ったあとの自分のほうを
まだ想像できていなかった。
そして今、その想像が、避けられなくなりつつある。
制度は、まだ始まっていない。
期限も、まだ決まっていない。
それでも、名前のついた不安は、もう二人の日常から、消えなかった。
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