第5話 失いそうな予感

それは、はっきりした出来事ではなかった。

言葉にできる変化でもなかった。

ただ、ある日を境に、美咲の生活が、僕の把握できる範囲から少しずつ外れ始めた。

帰宅時間が読めなくなった。

休日の予定を、事前に共有しなくなった。

スマートフォンを見ている時間が増えたわけでも、減ったわけでもない。ただ、どこに向けられているのかが分からない。

「今度の土曜、どうする?」

そう聞くと、美咲は一拍置いてから答えた。

「まだ分からない」

以前なら、「何かあるの?」と続けていた。

今は、その一言で会話を終わらせた。

理由は、はっきりしない。

踏み込んでいいのかわからなかったし、踏み込んだ先で、何かを求められる気もした。

僕は、自分が臆病になっているのを感じていた。

仕事帰り、街を歩きながら考える。

美咲は、どこへ行こうとしているのだろう。

その問いに、答えは出ない。

けれど、以前よりも頻繁に、「僕のいない場所」を想像するようになっている。

それは嫉妬とも違った。

誰か具体的な人物を疑っているわけでもない。

もっと曖昧で、もっと不安定な感覚だった。

――僕のいない未来。

その言葉が、胸の奥で小さく響く。


帰宅すると、美咲はまだだった。

部屋の灯りをつけ、上着を脱ぎ、いつものようにソファに座る。

この部屋は、二人の場所だ。

少なくとも、そう思ってきた。

だが最近は、自分が「仮にいるだけ」のような気がすることがある。

テーブルの上に置かれた郵便物。広告と、役所からの封筒。

美咲宛てだ。

開けるつもりはなかった。

それでも、視線は自然と文字を追ってしまう。

内容はわからない。

ただ、そこに書かれている文字の並びが、生活の延長線上ではない気がした。


美咲が帰ってきたのは、夜遅く。

「おかえり」

「ただいま」

声の調子は、いつも通りだった。

だからこそ、僕は聞いてしまった。

「最近、忙しい?」

言ってから、少し後悔した。

聞きたかったのは、忙しさの話ではなかった。

美咲は靴を脱ぎながら答えた。

「うん。ちょっと考えることがあって」

考えること。

その言葉は、これまでにも何度も使われてきた。

仕事のこと、家族のこと、将来のこと。

けれど今回は、僕がその中に含まれているのかどうかが、わからなかった。

「そっか」

それ以上、言葉が続かなかった。

シャワーの音が聞こえる間、僕はキッチンで何かを探すふりをしていた。

冷蔵庫を開け、閉め、また開ける。

――何をしているんだ。

自分でもわからなかった。

僕は、何かを失いかけている。

その感覚だけは、はっきりしていた。

失ったわけではない。

奪われたわけでもない。

ただ、気づかないうちに、選ばれなくなっているかもしれないという予感。

それは、怒りや悲しみよりも、ずっと扱いづらかった。


美咲がシャワーを終えて、バスタオルを肩にかけたまま、部屋を横切る。

その背中を見て、僕は初めて、具体的に想像してしまった。

この人が、ここにいなくなる日を。

引っ越しの段ボール。少なくなった靴。静かになった部屋。

その想像は、現実味を帯びすぎていて、慌てて頭を振った。

――まだだ。

まだ何も起きていない。

まだ、決定的な言葉は出ていない。

そう自分に言い聞かせながら、同時に、別の声も聞こえていた。

――「まだ」と言える時間は、無限ではない。

僕は、美咲に何も言わなかった。

引き止める言葉も、確認する言葉も。

言えば、何かが始まってしまう気がした。

そして始まった何かは、もう元には戻らない気がした。

だから僕は、その夜も、何も選ばなかった。

けれど、選ばないという行為が、すでに選択になっていることを、

うすうす感じ始めていた。

それは、失いそうな予感だった。

まだ形のない、しかし確かに存在する未来の影。

僕はその影から、目を逸らすことができなくなっていた。

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