第3話 戻れない位置
変わった、と言えるほどの出来事はなかった。
それでも、戻れない場所があることだけは、はっきりしていた。
朝、目を覚ますと、美咲はもう起きていた。
キッチンから、かすかに物音が聞こえる。コーヒーを淹れる音、引き出しを開ける音。生活の音だった。
以前と違うのは、それが誰のための音なのか、わからなくなったことだった。
「おはよう」
声をかけると、美咲は振り返って、少し遅れて笑った。
「おはよう」
その笑顔に、特別な意味はなかった。
だからこそ、意味があるように感じてしまった。
食卓に並んだのは、一人分の朝食だった。
僕は何も言わずに、冷蔵庫から牛乳を取り出した。
「今日、早いんだ」
「うん。ちょっと寄るところがあって」
それ以上の説明はなかった。
求めれば、してくれただろう。
けれど僕は、聞かなかった。
聞かなかった理由を、すぐに言葉にすることはできなかった。
面倒だったわけでも、興味がなかったわけでもない。
ただ、聞いてしまうと、何かを判断しなければならない気がした。
彼女が家を出たあと、部屋に残ったのは、いつもより静かな空気だった。
静かすぎて、生活音が足りないような気さえした。
以前は、静けさを心地よいと感じていたはずだった。
一人の時間、何も起きない夜、予定のない休日。
それらはすべて、「悪くない状態」だった。
けれど今は、その「悪くない」が、どこへ向かっているのかわからない。
仕事中、集中が切れた瞬間に、ふと考える。
美咲は今、何をしているだろうか。
その問いに、以前ほどの確信が伴わない。
以前は、だいたい想像がついた。
仕事、帰宅、夕食、テレビ、風呂、就寝。
今は、そのどれもが、確定していない。
それが悪いわけではない。
人は変わる。生活も変わる。
わかっている。
それでも、胸の奥に小さな引っかかりが残る。
何かを見失っているような、
いや、見ようとしていないような感覚。
夜、帰宅すると、美咲はまだ帰っていなかった。
テーブルの上に、メモもない。
以前なら、連絡が来ていないか確認しただろう。
今は、スマートフォンを裏返したまま、ソファに座った。
待つ、という言葉が頭に浮かんで、すぐに消えた。
自分が待っている立場だとは、思いたくなかった。
テレビをつける。
音は流れているが、内容は頭に入ってこない。
――この時間は、何のための時間だろう。
そんな問いが浮かび、慌てて打ち消した。
答えが出ない問いは、考えないほうがいい。
美咲が帰ってきたのは、日付が変わる少し前だった。
「おかえり」
「ただいま」
疲れているように見えた。
以前なら、「大丈夫?」と聞いていたかもしれない。
今は、言葉が出なかった。
シャワーの音が聞こえるあいだ、僕はキッチンでグラスを洗っていた。
すでに洗ってあるものを、もう一度。
その行為に意味はなかった。
ただ、手を動かしていないと、考えてしまいそうだった。
ベッドに入ると、美咲はすぐに背中を向けた。
眠っているのか、起きているのか、分からない。
その距離は、物理的には変わっていない。
けれど、以前よりも、声をかけるのに勇気がいる距離になっていた。
――いつからだろう。
決めなかっただけだ。
何も壊していない。
何も終わらせていない。
それなのに、何かが、静かに進んでいる。
その進行は、音もなく、合図もなく、ただ確実に、元の場所を消していく。
僕は初めて思った。
もしかしたら、決めないという選択は、立ち止まることではないのかもしれない。
ただ、自分の知らない方向へ進むことなのではないか、と。
その考えに、名前をつけるのが怖くて、僕は目を閉じた。
時間は、今日も同じ速度で流れている。
違うのは、その時間が、どこに積み上がっているのかだけだった。
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