第2話 同じ時間の、違う重さ
その夜の会話を、美咲は何度も思い返したわけではなかった。
思い返さないようにしていた、というほうが近い。
「今じゃなくてもいいんじゃないかな」
彼のその言葉は、予想外ではなかった。むしろ、いくつか想定していた答えの中で、いちばん現実的なものだった。だから、その場で泣くことも、声を荒らげることもなかった。
「そうだね」
そう返した自分の声が、思ったより自然だったことに、美咲自身が少し驚いたくらいだ。
けれど、驚いたのはそこまでだった。
感情は、ちゃんと遅れてやってきた。
ベッドに入って、隣で彼の寝息を聞いているうちに、美咲は目を閉じたまま考えていた。今日の会話が、二人の関係を壊したとは思わなかった。何かが終わった感じもしなかった。
ただ、何かが先送りされた、という感覚だけが残っていた。
それは、白紙に戻ったというより、
書きかけの書類を、引き出しの奥にしまわれたような感覚だった。
翌朝、いつもより早く目が覚めた。
彼の寝顔を見て、少しだけ迷ってから、静かにベッドを抜けた。
キッチンでコーヒーを淹れながら、美咲は思った。
昨夜の会話について、誰かに話したい気はしなかった。愚痴にしたくなかったし、相談というほど切実な言葉も見つからなかった。
「まだ大丈夫だよ」
もし話したら、きっとそう言われる。
そして、その言葉に、うなずいてしまう自分の姿も想像できた。
だから、美咲は一人で抱えることを選んだ。
出勤前、鏡の前で髪を整えながら、自分の顔を少しだけ長く見た。疲れているようにも見えないし、特別老けたようにも見えない。ただ、数年前と比べて、「待つこと」に慣れた顔をしている気がした。
電車の中で、同年代の女性たちを眺める。
薬指の指輪、ベビーカーの写真、仕事の愚痴。どれも、かつては自分と同じ速度で進んでいた人たちだ。
誰かが前に進んだからといって、自分が遅れているわけではない。
それは、頭ではわかっている。
それでも、時間が平等に流れていないように感じる瞬間は、確かにあった。
昼休み、同僚の何気ない一言が胸に引っかかった。
「美咲って、長いよね」
何が、とは言われなかった。
けれど、美咲はすぐにわかった。
長い。
その言葉は、安定とも、慎重とも、信頼とも、簡単に言い換えられる。
同時に、動いていないという意味にもなる。
その夜、帰宅が遅くなったのは、仕事のせいだけではなかった。
少し遠回りをして、コンビニに寄り、必要のないものをいくつか買った。
家に帰ると、部屋はいつも通りだった。
彼の靴、彼の上着、彼の生活の痕跡。
「ただいま」
「おかえり」
そのやりとりのあいだに、何も変わった様子はなかった。
変わっていないことが、少しだけ、苦しかった。
シャワーを浴びながら、美咲は考えていた。
自分は、彼に何を期待していたのだろう。
プロポーズの言葉か。
具体的な日付か。
将来設計の共有か。
どれも違う気がした。
欲しかったのは、一緒に決める姿勢だったのだと思う。
正解かどうかはわからなくても、迷いながらでも、同じ方向を向いて考えてくれること。
待つこと自体が辛かったわけではない。
辛かったのは、待っている時間が、自分のものとして扱われていないと感じることだった。
ベッドに入ると、彼はすでに眠っていた。
背中を向けたままの姿を見て、美咲は小さく息を吐いた。
この人と過ごした時間を、無駄だと思ったことは一度もない。
好きだったし、今も嫌いではない。
それでも、心のどこかで、静かな声がしていた。
――このままでは、何も変わらない。
そしてもう一つ。
――変わらないことが、必ずしも「続く」ことではない。
その声は、責めるようでも、急かすようでもなかった。
ただ、事実を淡々と告げているだけだった。
美咲は、その声を、まだ誰にも話していない。
話した瞬間、それが「決断」になってしまう気がしたからだ。
だから今は、その声と一緒に、静かに時間を過ごしている。
選ばれなかった時間が、どこへ向かっているのかを、まだ、確かめずに。
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