選ばなかった時間

@MorningHasCome

第1話 選ばなかった時間

結婚の話が出たのは、特別な日ではなかった。

雨でもなく、記念日でもなく、何かを祝う理由もない夜だった。

テーブルの上には、二人分の夕食が並んでいた。味は覚えていない。

覚えているのは、湯気がゆっくり消えていく様子と、箸を置いたままの彼女の手だった。

「ね」

その一言が、ずいぶん遠くから聞こえた気がした。

「うん」

返事をした自分の声は、思ったより落ち着いていた。

動揺していないつもりだった。少なくとも、その場では。

「私たち、これからどうするんだろうね」

その問いは、答えを求めていないようにも聞こえた。

未来の相談というより、現在地の確認に近い。

だから僕は、深く考えずに口を開いた。

「今じゃなくても、いいんじゃないかな」

言い終えた瞬間、空気が少しだけ変わったのがわかった。

冷えたわけでも、張りつめたわけでもない。

ただ、何かが一段階、別の場所へ移動したような感じだった。

彼女はすぐには何も言わなかった。

代わりに、コップの水を一口飲んだ。その仕草が、やけに丁寧に見えた。

「そうだね」

肯定だった。少なくとも言葉の上では。

その夜、僕は自分が何かを失ったとは思わなかった。

むしろ、無事にやり過ごしたという感覚のほうが強かった。

重たい話を、重たくならずに終えられた。そう思っていた。

考えなかったわけではない。

結婚という言葉が頭をよぎらなかったわけでもない。

ただ、それは「今、決める必要のあること」ではなかった。

少なくとも、僕にとっては。

決めないことは、何も選ばないことだと思っていた。

その場に留まるだけで、時間は同じように流れ、関係も同じように続くと、疑いなく信じていた。

あとから振り返れば、その確信こそが、いちばん根拠のないものだった。

彼女が食器を片づけ、シャワーを浴び、いつものように隣で眠った夜も、世界は何事もなかったように続いていた。朝は来て、仕事に行き、連絡を取り合い、また夜が来た。


ただ、あるとき気づいた。

同じ日常の中に、以前はなかった重さが混じっていることに。

それは言葉では説明できなかったし、説明しようとも思わなかった。

説明した瞬間、それが「問題」になってしまう気がしたからだ。

だから僕は、その重さを見ないふりをした。

まだ大丈夫だと思った。

まだ、何も失っていないと思った。

――その「まだ」が、どれほどの時間を含んでいるのか、考えたことはなかった。

選ばなかったのは、結婚だけではない。

未来でも、彼女でもない。

僕が選ばなかったのは、決めるという行為そのものだった。

そしてその選択が、どんな速度で、どこへ向かって進んでいたのかを、

このときの僕は、まだ知らなかった。


翌朝、彼女はいつもより少し早く家を出た。

理由は聞かなかった。聞くほどのことではないと思ったし、聞かないことで保たれる均衡がある気もした。

玄関のドアが閉まる音は、普段と変わらなかった。強くもなく、弱くもない。生活音として、ちょうどいい大きさだった。

それでも、その音が消えたあと、部屋の中に残った静けさは、いつもより長く感じられた。

コーヒーを淹れ、パンを焼いた。彼女の分は用意しなかった。理由は単純で、もう出ていたからだ。だが、以前なら、無意識に二人分を準備していたことに、あとから気づいた。

――こういう変化は、誰にも気づかれない。

仕事に向かう電車の中で、昨夜の会話を思い返した。思い返したというより、自然と浮かんできた。何度も。特定の言葉だけが、少し形を変えながら繰り返される。

今じゃなくてもいい。

間違ったことは言っていない。

嘘もついていない。

ただ、全部を言っていないだけだ。

結婚したくないわけではなかった。

彼女と結婚する未来を、まったく想像できなかったわけでもない。

ただ、その未来が「今」である必要性を、感じられなかった。

もし今、決めてしまったら。

もし今、踏み出してしまったら。

もしその先で、違和感を覚えたら。

そう考えるたび、頭の中に浮かぶのは、後悔する自分だった。誰かを責めるわけでも、逃げるわけでもなく、ただ静かに、「もっと考えればよかった」と繰り返す自分の姿。

その想像は、現実よりも生々しかった。

だから僕は、決めなかった。

正確に言えば、決めないという状態を、続けることを選んだ。

それが、最も誠実な態度だとさえ思っていた。軽率に決めるより、よほど大人だと。


昼休み、スマートフォンを何気なく開くと、知人の結婚報告が目に入った。白い服、笑顔、ありきたりなコメント。以前なら、祝福の気持ちと同時に、少し距離のある世界の出来事として流していたはずだ。

だがその日は、違った。

「決めたんだな」

そんな感想が、先に浮かんだ。

羨ましいわけでも、焦っているわけでもない。

ただ、「決めた」という事実だけが、やけにくっきりと見えた。


その夜、彼女は遅く帰ってきた。

「おかえり」

「ただいま」

いつものやりとり。

だが、そのあいだに、説明のない時間が挟まっていた。

「忙しかった?」

「ちょっとね」

それ以上、会話は続かなかった。続けようと思えば、いくらでも続けられたはずだ。仕事の話、テレビの話、週末の予定。どれも安全な話題だった。

それでも僕は、口を閉じた。

言葉を選ばなかったわけではない。

選びすぎて、出せなかった。


シャワーの音が浴室から聞こえてくるあいだ、僕はソファに座って、何もしていないふりをしていた。テレビはついていたが、内容は頭に入ってこなかった。

――この時間は、どこへ行くのだろう。

ふと、そんな考えが浮かんだ。

使っていないわけではない。

浪費しているわけでもない。

ただ、何にも変換されないまま、積み上がっていく。


選ばなかった時間。

その言葉が、胸の中に落ちた。

それは、後悔でも、喪失でもなかった。

もっと曖昧で、もっと扱いづらいものだった。

いつか決めるつもりでいる人間だけが、無限に持っていると思い込める時間。


その夜、隣で眠る彼女の背中を見ながら、僕は初めて考えた。

もし、このまま何も決めなかったら。

もし、同じような夜が、何十回、何百回と続いたら。

その先にあるのは、結婚でも別れでもない。

「選ばなかったという事実」だけが残る未来ではないのか、と。

答えは出なかった。

出そうともしなかった。

ただ、目を閉じる直前、

一つだけ、はっきりとした感覚があった。

――時間は、こちらの都合を待ってくれない。

それでも僕は、その夜も、

何も選ばないまま眠りについた。

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