偏ニ風ノ前ノ塵ニ同ジ
6
「貴方は、忘れられることに⋯⋯恐怖心は⋯無いの?」
問いかける紅葉の言葉は身体同様震えている。
——脂汗が首筋を伝い、言葉が喉に絡むことも一症状だ。
未確定な『記憶』にのみ委ねられ、生きることしかできないから『非現実』として扱われる。
それが、『紅葉』。
それが、『悪守』。
まるで井戸水。
―――口に含めば、芯まで冷やす。
「恐怖か。今一度問おう。―――何故、人間を戦慄せしめんとする我々が、そのような妄執に取り憑かれる必要があるか?
それを教えてくれたのは、他でもない、お主ではないか」
悪守は続ける。
「お主が考えていることは十二分に承知しておる。―――だが、もう結論はでているだろう?
名を聞く前に、吾は既に腹を括った。―――蓮台野での生活は⋯⋯もう終りが近い」
「それって、つまり⋯⋯」
紅葉が唇を強く噛む。
唐紅を包まんとする薄い膜が、無意識に、静かに切り落とされる。
トドメを指さんとばかりに、自らの言の葉と呼ぶべき鋭利を。
再び、のっぺらぼうが微笑む。
「悪守は、自身を悪守と認識した時点で残り香は一日とて保たない。―――お主は、それでも看取るのか?」
それを確認した少女の胸中を貫く―――陳勝呉広という言葉。
さきがけという意味だ。
死に急ぎとはまた違う。
大団円ともまた違う。
―――鉄の味がする『口噛み酒』。
しかし、それが反証の一手となった。
「でも、だからこそ。―――貴方を、汚い土蚯蚓と思っているからこそ、私は看取る義務がある」
「―――だが、勘違いしてはならない。お主は吾を今日殺すこととなった事実がある。
⋯⋯だが、吾は孤独を捨てることができ、お主に看取られることができる」
「これは契だ。断じて反故にしてはならぬ。そして、お主がこの地を後にした時、それが縁の切れ目である」
7
「……どうやら、往生のようだ」
そう告げた悪守の声は、すでに砂が崩れるような掠れた響きへと変わっていた。
紅葉は、噛み切った唇から溢れる「鉄の味」を飲み込み、一歩、また一歩と、巨大な土蚯蚓の塊へと歩み寄った。
逃れられない血の宿命。
数百年前に彼を打ち倒した「あのおなご」と同じ、肉吸いの血。
「なら、殺した責任を取ってあげるわ。……土蚯蚓」
紅葉は、脂汗に濡れた掌を、躊躇いなくその異形の体躯へと押し当てた。
触れた先から、自身の「生」が吸い取られ、代わりに悪守の「死」が逆流してくる。
混じり合う、穢と、ハレ。
その瞬間。
悪守の、光を失っていたはずの「のっぺらぼう」が、激しく震えた。
紅葉の網膜を通じて、彼女の脳裏にある「自分自身の姿」が、悪守の絶え絶えな意識へと直接、転写される。
―――それは、再現性のない、二度目の『奇跡』だった。
暗黒だった神社の境内が、一気に塗り替えられる。
悪守がかつて伊賀で見た、天正のあの極彩色。
彼が見たのは、紅葉だった。
あるいは、紅葉の中に眠る、あの「おなご」の面影だった。
桔梗の花を煮出したような深い紫の着物。
夕闇の中で、紅く、紅く、灯火のように浮かび上がる少女の輪郭。
唇を三日月のように歪めた、残酷で、それでいてひどく慈悲深い微笑み。
「……ぁ……あぁ……」
悪守の口腔から、土砂の崩れるような、しかし確かな「歓喜」を孕んだ溜息が漏れた。
数百年の時を超え、彼は再び「美」を捉えたのだ。
紅葉というレンズを通して。
「見える……。お主……いや、貴殿……」
その時、紅葉には見えた。
悪守の醜悪な蚯蚓の隙間から、一滴、また一滴と、真珠のような輝きを放つ「涙」が溢れ、地面に吸い込まれていくのを。
「美しかったわよ。貴方の……最後に見る景色は」
紅葉がそう囁いた瞬間、極彩色の世界は砕け散った。
悪守の体躯は、眩いほどの粒子となって弾け、一瞬のうちに霧散した。
後には、紅葉の手のひらに残る、微かな熱と。
鳥居の奥に降り積もった、肥料のように黒く、柔らかな土だけが残された。
耳を劈くほどだった寒蝉の声は、もう聞こえない。
代わりに、木々の隙間から、どこか遠い時代から吹いてきたような、夏の風が再び吹き抜けた。
【エピローグ】
紅葉は、ゆっくりと手のひらを離した。
先ほどまでそこにあった、熱を持つ異形の感触は、もうどこにもない。
指先には、ただ悪守の最期の涙にも似た、冷たい夜露の気配だけが残っていた。
少女は乱れた呼吸を整え、鉄の味を飲み下す。
そして、歪んだ鳥居の前に立ち、深く、深く、一礼した。
それが肉吸いとして、看取りの旅を続ける彼女が捧げられる、唯一の「供養」だった。
その瞬間だった。
頭上で、それまで鳴き止んでいた蝉が、狂ったように鳴いた。
日没を惜しむような、断末魔の響き。
それは、あのおなごに会えた奇跡を抱いたまま、悪守が安らかに亡くなった合図でもあった。
ふと視線を上げれば、陽炎に揺れていた廃村の細部が、砂の城が崩れるように曖昧に溶けていく。
「居た」という痕跡すら、歴史の因果の中に吸い込まれ、ムラという存在が完全に無くなっていく。
そこにあるのは、ただの夏草の茂る荒れ地。
寂れた神社の祠も、悪守と語った時間も、最初から幻であったかのように。
「…………っ」
紅葉は、堪えきれずに顔を伏せた。
感情を蝕んでいた魚の骨のようなモヤが、熱い雫となって眼窩から溢れ出す。
悪守との縁が切れたその場所で。
誰に、何に対してかもわからぬまま、紅葉は、ただ独り静かに泣いた。
鳴く。亡く。無く。泣く。
四つの「なく」が重なり合い、やがて等しく「無」へと還っていく。
諸行無常ノ響キアリ。
その響きが完全に消え去った後、少女は涙を拭い、再び歩き出した。
背後に残されたのは、ただの乾いた風と、どこまでも青く、無関心な夏の終わりの空だけだった。
【完】
亡我ノ記憶 菖蒲士 @14840101
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