第2話 硝子の桜桃

私は一児のシングルマザーだ。仕事と育児を両立しながら日々をこなしている。けれども、毎日ひとつだけどうしても解決できない悩みがあった。それは、息子のイヤイヤ期だ。服を着るのも、食事をさせるのも一苦労で、保育園に遅刻したり、仕事に遅刻したりすることが増えていた。その度に、私の心はどんどん疲れ果てていった。

ある日、息子を寝かしつけて気分転換に外を歩いていた。街灯の下で何となく立ち止まると、後ろから声をかけられた。「お疲れのようですね、お嬢さん。」振り向くと、深くフードをかぶった高身長の男が立っていた。その顔は見えなかったが、どこか不思議な存在感があった。私は警戒して足を止めた。しかし、男はそれを察したのか、優しげに微笑んで言った。「逃げないで。僕は怪しいものではありません。」私は一つ息を吐き、男を真っ直ぐ見つめた。「何か困りごとがあるような顔をしてますね。例えば、育児とか。」その言葉に胸がぎゅっと締めつけられるようだった。まさにその通り、私は息子のイヤイヤ期で毎日が疲れ果てていた。それを誰にも言えずにいた私を、男はまるで見透かしたかのように語りかけてきた。「やっぱり。」男は軽く笑った後、手を差し出すようにして何かを転がした。それは、月の光に照らされたガラスのサクランボだった。真っ赤に輝くその果実は、まるで魔法のように美しく、手に取った瞬間、心が引き寄せられるような感覚を覚えた。「これをお子さんに食べさせてみてください。そうすれば、たちまちいい子になりますよ。」男は言い終わると、何も言わずにふっと姿を消してしまった。 私はあのガラスのサクランボを見つめ、深く息をついた。

翌朝、また息子はイヤイヤと泣き叫んでいた。用意してもらうことを嫌がり、身動きが取れなくなっていたその時、ふと思い出したのだ。あのガラスのサクランボのことを。私はそれを手に取ると、静かに願った。「息子がテキパキと準備をして、毎日楽しく保育園に行ってくれますように。」そして、息子にそのサクランボを口に含ませた。すると、驚くべきことが起きた。しばらくすると、息子は泣き止み、準備をするのもあっという間。まるで別人のように楽しそうに、保育園に出かけていったのだ。「ガラスのサクランボ、すごい!」その不思議な力に感動し、私は心の中で何度もそのサクランボを称賛した。その後も息子の食事や行動に困ることがあれば、ガラスのサクランボに願いを込めて食べさせることを繰り返した。たとえば、野菜が嫌いで食べない息子に「好き嫌いがなくなりますように」と願い、サクランボを食べさせると、何でもすんなりと食べてくれるようになった。最初は些細な変化だったが、次第に息子は私の言うことだけを聞くようになり、何でも素直にうなずくようになった。息子の反抗的な一面や、自己主張する姿はほとんど見られなくなり、ただ言われたことに従うだけになってしまった。見守っていた私は、次第に違和感を覚えるようになった。ある日、ふと気づいた。息子は「いい子」になったのではなく、私が望んだようにすべてを調整しようとして、彼自身がどんどん変わりすぎてしまったのだ。もはや、自分の意見や感情を押し殺し、私の言葉に従うだけのロボットのような存在になってしまった。その時、心の中で冷たいものが走った。「これじゃ、だめだ。」私は慌てて息子を抱きしめ、彼の顔を見た。「ごめんね。」涙がこぼれた。息子は、私の頭を優しく撫でてくれた。それは、彼が何も言わずに私を受け入れてくれている証拠だと思った。

その頃、街の外れの山中にひっそりと建つ一軒家。その家の中には色とりどりの液体の入った瓶が飾られた棚があった。その前に立った男は新しい瓶を見つめていた。男は微笑みながら言った。

「ふふ、今日も一個溜まった。」

彼の口から漏れる笑い声は、まるで周囲の空気さえ震わせるようだった。

「他人が思い通りにならないと怒るくせに、思い通りになりすぎてもよくない。これだから人間は面白い。」

男はそう呟き、マントを翻して消えていった。その後、あたりには不気味な笑い声が響き渡るだけだった。

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