第4話 底の工房

 灰色の光は、朝になっても灰色のままだった、壁の隙間から差す明るさが少し増えた気がするだけで、時間の輪郭は曖昧なまま残る


 堂島は目を覚まし、呼吸を確かめた、煤の味はする、けれど昨日ほど胸の奥は重くない、動ける、頭も回る


 それより先に、胃のあたりがきゅっと縮んだ、ここは自分の場所じゃない、ここは彼女の家だ、寝て起きて水を飲んで息を整えている、それだけで居候の形になる、助けられたのにまだ何も返していない、後ろめたさが昨日よりはっきり刺さる


 部屋の端で、シルビィが外套の紐を結び直していた、動作は静かで迷いがない、彼女にとってこれは出かけるじゃなく日課なのだろう


「行く」


 短い言葉だけが落ちる


 堂島は布から起き上がり、少し距離を置いて言った


「昨日の話だ、工房に行くなら俺も一緒に行く」

 一拍置いて続ける

「ただ、判断は君に任せる、俺はついていくだけだ」


 シルビィは堂島の服を見た、服だけを、それから顔を戻す


「ついてくる、静かに」


「了解」


 扉の閂が外れ、冷たい空気が一息だけ入る、シルビィが先に出て堂島が一拍遅れて続いた、外の匂いが肺にまとわりつく、煤、蒸気、油、湿った鉄


 路地は狭い、板と鉄板で継ぎ足した家が重なり、配管が頭上を這っている、継ぎ目から白い蒸気が細く漏れ、どこかで金属が擦れる、底の音は低く途切れない


 騒がしいわけじゃない、声はある、怒鳴り声ばかりでもない、ただ気を抜けるほど穏やかでもない、視線が合えばすぐ逸らされる、関わらないのが一番という距離が路地に染みついている


 堂島は歩きながら、見回しすぎないよう意識した、見たければ視線を落として必要なものだけ拾う、シルビィの歩き方がそうだった


 曲がり角の前で、彼女が一度だけ目を滑らせる、堂島も真似をする、角の向こうから荷を引く男が二人、こちらを一瞬見て何も言わず通り過ぎた、刺さるというより引っかかる、スーツがこの場所の空気から浮いている


 それでも引き返す気持ちは湧かなかった、体がどう持つかなんて気にしている場合じゃない、自分のことは自分で何とかしないといけない、居候のまま黙って座っているほうがよほど格好が悪い、手を動かして足場を作る、返すものを作る、それが今の堂島に残った筋道だった


 路地を進むうち煤の霞が少し濃くなる、どこか近くで蒸気機関が動いているのだろう、唸りが地面から響く、堂島は咳をひとつ喉の奥で殺した、息がざらつく、それでも止まらない


 やがて板張りの壁が続く一角に出た、他より少しだけ広い入口、そこから油と金属の匂いが流れてくる、外に積まれた木箱の上に歯車やパイプの切れ端が雑に置かれていた


「工房」


 シルビィが言う


 内側から金属を叩く音がした、一定のリズム、迷いのない手つきの音


 堂島は足を止める、言葉が通じても立場が分からない、客か厄介者かどちらにも転ぶ、シルビィが先に入る、堂島は半歩遅れて続いた


 中は狭いが物で満ちていた、工具、金属片、配管、歯車、棚は雑多に見えて手が届く範囲に収まっている、蒸気の抜ける音が一定で、危うさが制御されている感じがある


 奥で誰かが振り返った


 明るい茶髪を高い位置でまとめ、ゴーグルを頭に乗せた少女、茶色の作業ジャケットに工具ベルト、手袋、活発な雰囲気がそのまま形になっている


「お、来たじゃん、今日は早いねシルビィ」

 視線が堂島に移り、口元がにやりと上がる

「って、その後ろのおじさん何、迷子、それとも拾った」


 シルビィは布袋を持ち上げるだけで答える


「拾った」


「拾ったって言い方よ」

 少女は笑いながら堂島を頭から足まで一度で見た、値踏みじゃない、異物確認の目だ

「その服、底じゃただの目印だよ、おじさん名前は」


 堂島は一歩前に出て軽く頭を下げた


「堂島晴彦だ、昨日、底で倒れてたところをシルビィに助けてもらった」

 言葉を整えて続ける

「売り先の工房があるって聞いたから、顔を出しておきたかった、今後も何かと世話になるかもしれないからな」


 少女は目を細め、口元だけ笑う


「なるほどね、そういうの先に言えるおじさんは嫌いじゃない」

 肩をすくめて続けた

「で、なんで倒れてたの、底で寝落ちするタイプ」


「理由は分からない、気づいたらこの子の家だった」


「底はね、分かることの方が少ないよ」


 軽口みたいに言って、少女は布袋を受け取り床に広げた、歯車、管、金属片、錆の深いものとまだ使えそうなものが最初から見やすく寄せてある


 少女の手が途中で止まる


「……あれ、今日やけに見やすい」

 指で弾く、乾いた音がする

「シルビィ、これ自分でやった?」


「ドージマ」


「なるほど、おじさんか」

 少女は今度は服じゃなく堂島の手元を見る、目の動き、迷いの少なさ

「これ、うちで欲しいやつだよ、分けてあるだけで探す時間が減る、客を待たせるのが一番きついからさ」


 工房の隅を顎で示す、箱がいくつも積まれ、部品とも屑ともつかない金属が混ざっている


「ほら、あれだ、詰まりって言うのかな」

「修理ってさ、直す手より探す手で止まると手間なんだよね」

 言葉が途切れない

「それに忙しいと締め忘れとか戻し忘れって出る、私もやる」

「この下で蒸気漏らしたら洒落にならない、横でそこ違うって言える目が一人いると事故が減る」


 少女はそこで堂島じゃなく、先にシルビィを見る、底のやり方だ、線を越えない


「ねえシルビィ、このおじさんちょっと借りていい」

「今日は工房の中だけ、外に連れ回さない」

「詰まりが減ったら、シルビィの買取りも上げられる、こっちも得だし」


 シルビィは一拍置いて答える


「工房、だけ」


「オッケ、工房の中だけね」

 少女はうなずいてから堂島を見る

「で、おじさん、今、時間は空いてる?このあと行く当てある?」


 堂島は首を横に振る


「予定はない、やれることがあるならやる、自分の足場を作りたい」


 それを聞いて、少女は満足そうに笑った


「いいね、その顔」

「力仕事はこっちでやる、おじさんは座って分ける」

「あと私が組んだ配管とか、最後に一回だけ目で追って、締まってるか戻ってるか、そこだけ」


 堂島は一拍置いて言う


「了解、触っていい範囲を決めてくれ、工具は勝手に触らない、必要なら言う」


「いいね、その確認、助かる」

 少女は指を折って示す

「触っていいのはその箱の中と、シルビィが持ってきた分だけ」

「道具は私が渡すまで触らない、勝手に分解もしない、これでいこう」


 シルビィが堂島を見る


「座る」


「ああ、そうだな」


 堂島は箱の前に腰を下ろし、中身を一つずつ出し始めた、欠けの浅い歯車、錆が表面だけの金属、ネジ山が生きている部品、割れているもの、歯が飛んでいるもの、熱で歪んだものは別、迷うものは脇へ寄せ、あとで判断できるようにする


 床に三つの山ができていく、使える、屑、迷う、金属の乾いた音が工房の一定のリズムに混じっていった


 少女はその様子を横目で見ながら、手を止めずに喋った


「私はリコット、ここで修理屋やってる」

「シルビィとは取引、拾い物を買ってる側」

「おじさんの分け方、変に几帳面じゃなくて実用的だね、こっちの仕事が回る」


 堂島は手を動かしたまま返す


「ああ、俺も助かる、居候のままより手を動かしてるほうがマシだ」


「居候って言い方、重いね」

 リコットは笑い、棚の下をごそごそ探し始めた

「でも分かる、底は借りが刺さる、他でもかな、

 はい、これ」


 古い作業着らしい布を引っ張り出して、堂島に放る


「うちの余り、今ではね、サイズは知らないけどスーツよりはマシ」

「そのまま外歩くと視線でメンタルが削れる、削られると判断が鈍る、判断が鈍ると事故る」


 堂島は受け取って布を確かめた、煤の匂いがする、それでもこの世界の匂いだ


「……借りる」


「奥、仕切りある」

 リコットが顎で示す

「着替えたら戻ってきて続き、シルビィの分は先に計算する」


 堂島は作業を区切り、奥で素早く作業着に着替えた、鏡はない、布の感触が変わる、スーツの硬さが消えて少しだけ底に近づく


 戻ると、リコットはもう銅貨を分けていた


「はい、今日の拾い物の分」

「それと、分けてくれて助かった分、ちょい上乗せ」

 リコットは堂島を見る

「おじさんの稼ぎって形にすると変に見えるから、シルビィの分に乗せる、今はそれが一番自然」


 堂島は頷く


「……ああ、それでいい」


 シルビィは受け取り、外套の内側へしまう、動きが速い、見せない、迷わない


 工房の音の中で、堂島は手だけを動かし続けた、継手や歯車を分類し、緩んでいる継ぎ目を指で示すと、リコットが締め直す

 小さな確認が積み重なるほど、ここが生きる場所だと分かってくる


 しばらくして、リコットが箱の山を見て満足そうに言った


「いいね、これだけ分かれてると次の修理が回る」

「おじさん、また借りたい、シルビィいいかな?」


 堂島はシルビィを見る、ここで勝手に決めない、線は彼女のものだ


「自分のことは自分で形をつけたい、ここで生きて行く基盤を作りたい、どうだろうか?」


 シルビィは短く言う


「工房、だけ」


「監督が厳しい」

 リコットは笑って手を振った

「じゃ今日はここまで、作業着は貸しとく、返すのはいつでもいい」


 工房を出ると、灰色の光がまた肌に貼りついた、だが視線の引っかかりは弱い、スーツほどの異物感が消えている


 帰り道、堂島は歩幅を合わせて言った


「シルビィ、今日は助かった、連れてきてくれて服まで借りられた、少しは歩きやすくなる」


 短い肯定が返る


「うん」


 堂島は口の中で苦く笑った、あの短さは相槌というより生活の速度だ


 家に戻ると空気が少し落ち着く、外の蒸気音は薄い壁を通して聞こえるが、ここはシルビィの範囲だと分かる


 シルビィは銅貨を棚の奥へ押し込んだ、堂島は見ても口に出さない、底で金は見せない、それも今日覚えた当たり前だ


 鍋が温まり、薄いスープが器に注がれる、堂島は両手で受け取り少しずつ飲んだ、温かさが腹に落ちると胸の奥の痛みが鈍くなる


 その瞬間、後ろめたさが刺す、このスープだって彼女のものだ、居候のまま飲むのはやっぱり落ち着かない


 器を置き、声を落として言う


「シルビィ、すぐ全部返せるとは言わない、でも借りっぱなしにはしない」

「自分のことは自分で何とかする、ここで借りた分は手で返す、金も作る」


 シルビィは鍋を片づけながら短く返す


「いい」


 許すでも甘やかすでもなく、今はそれで回すしかないという音だった


 夜になると底は光じゃなく音が減っていく、生活の声が薄くなり蒸気の唸りだけが残る

 シルビィが扉を確かめ、狭い寝台の布を整えた


 堂島は喉の奥が詰まる、家のベッドは一つだけだ、居候の後ろめたさがこういう所で形になる


「俺は床でいい」


 シルビィは短く返す


「床、冷たい」


「冷たいのは分かる、でも君の寝台だ、俺が使うのは違う」


 シルビィは一拍だけ黙って、布を指で叩いた、空いている端を示す


「端、触らない」


 息を吸って吐く、拒まれているわけじゃない、線が引かれただけだ、その線を守れるなら揉めるのは余計だ


「了解」


 堂島は靴を脱ぎ、作業着の上着を畳んで枕代わりにした、寝台のいちばん端にだけ腰を下ろし体を小さくする、場所を取らないよう背中を丸めるのがせめてもの礼儀だった


 シルビィは反対側に横になった、布が擦れる音がして距離が固定される、二人の間にちょうど一枚ぶんの空白が残った


 暗さの中で音が目立つ、堂島の呼吸と遠い蒸気の唸り、板が収縮する小さな鳴り、隣の小さな寝息が一定の間隔で混じる


 堂島は動かないと決めたまま、声を落として言った


「明日も動く、自分のことは自分で何とかする、借りた分は返す」


 少し間があって短い声が返る


「いい」


 堂島は小さく息を吐く


「……ああ」


 それ以上は言わない、言葉を増やすと距離が崩れる気がした、守るべきなのは彼女が引いた線だ


 やがて布が静かになり、シルビィの呼吸が深くなる、堂島は天井の暗さを見つめたまま目を閉じる


 灰色の底で、夜は静かに沈んでいった

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