第3話 逃げられない世界
扉が閉まって、軽い足音が遠ざかると、部屋の中は急に広く感じた。
遠くの蒸気の唸りと、どこかで金属が擦れる音だけが、底の時間みたいに流れている。
堂島晴彦は、しばらく立ったまま動けなかった。
息は吸える。胸の奥の重さも薄い。咳も出ない。回復しているのは確かだ。
だからこそ、状況の分からなさが骨に触れるみたいに怖い。
(落ち着け、まずは情報だ)
自分へ言い聞かせた言葉を、もう一度だけ胸の中で繰り返す。
堂島は寝台代わりの藁の束に腰を下ろし、ビジネスバッグを引き寄せた。
中身を確かめる。財布、鍵、名刺入れ、メモ帳とペン。
スマホは圏外、缶コーヒーは冷えきっていた。
メモ帳を開く、文字を起こす、頭の中の霧を切るためだけだ。
・駅、改札までは記憶がある
・そこから先が飛んで、目覚めたらこの部屋
・ここは「底」、上と中がある
・外は煤と蒸気、日本の風景ではない
・優先は情報と金、目立たないこと
書いた瞬間だけ、頭の霧が薄くなる。
堂島はペンを置き、メモ帳を閉じた。
それからしばらく、堂島は部屋の中で時間をやり過ごした。
壁の隙間から差す光はずっと灰色で、時計代わりにならない。
外の音だけが少しずつ変わる。蒸気の唸りが遠くなったり近くなったり、人の声が一瞬だけ混じっては消える。
喉が乾いたころ、残っていた水を少しだけ口に含んだ。
冷たい。ざらつく。けれど、息が整う。
腹が鳴ったころには、胸の痛みも、動けば刺すから、動かなければ鈍いくらいに変わっていた。
扉の外で足音がした、軽い足音が近づいてくる。
やがて扉が開き、冷たい空気が一息だけ入り込む。
シルビィが戻ってきた。
外套の裾に煤が薄く付いている、布袋を持っており中身は重そうである
「ただいま」
「……ああ。おかえり、シルビィ」
堂島は言ってから、少しだけ言葉を足した。
「君がいない間、外の音ばかり聞いてた。落ち着かないな」
シルビィは瞬きをして、布袋を床に置いた。
「落ち着かない?」
「ここがどこで、何が普通で、何が危ないのか掴めてない」
シルビィは「ふうん」とだけ言う
堂島は袋の中身を見た。金属片や歯車の欠け、細い管が混じっている。
「拾ったやつか」
「そう」
「売るんだよな。どこで、誰に」
「工房でリコットに」
初めて出た固有名に、堂島は頷いた。
「分かった。明日そこへ行くなら、俺も一緒に行きたい」
距離を詰めすぎない位置で、言葉を選ぶ。
「シルビィ、俺にも手伝わせてくれないか?」
「手伝うって、なに」
「仕分けだ。良いのと悪いのが混ざってると、まとめて安くされる。
欠けが少ないの、錆が浅いの、曲がってないの。まとめておけば、こちらも相手も分かりやすい」
「座ってやるなら、いい」
「……ああ、そうしよう、倒れて迷惑はかけない。
もしダメだと思ったら止めてくれ、その時は引っ込む」
堂島は床に腰を落とし、袋の中身を一つずつ出した。
欠け具合、錆、油の残り。触って分かる情報がある。
「これは歯が揃ってる。こっち」
「こっちは欠けが多い。別」
「管は曲がりが少ないのをまとめる」
シルビィも隣に座り、同じように手を動かし始めた、
真似が早い。
作業が少し落ち着いたところで、堂島は声を落とした。
「シルビィ、聞いてもいいかな?」
「なに?」
「俺のいた場所では、言葉に名前がある、日本語って君は知らないって言ったな」
「知らない」
「じゃあ、今俺たちが話してる言葉の名前はあるのか」
シルビィは少しだけ考えた。
「ただの言葉、底の言葉」
「底の言葉……上の人も同じのを使う?」
「使う、でも、言い方が違う」
「丁寧な言い方があるってことか」
「うん」
堂島は手を止めずに続けた。
「文字はあるか。看板とか、本とか、役所の紙とか」
「ある。役所の紙」
「私は読めない、でも形は知ってる」
堂島は息を飲みそうになって、飲み込んだ。
言語があり、文字がある。
だが言葉の名前は共有されていない。
それなのに会話は成立している。
「俺の世界では、国が違えば言葉が違う、文字も違う、
同じ音を話しても、通じない相手は普通にいる」
シルビィは「ふうん」とだけ言った。
「今の話を聞く限り、ここは俺の知ってる国じゃない、
少なくとも日本じゃない」
「景色も、街の作りも違う」
「それに、言葉の名前が共有されてないのに会話が通じてる。これが一番おかしい」
胸の奥が沈む。
否定したい感覚が、もう否定できない形で固まっていく。
「日本って聞いたことはあるか?地名でも、人の名前でもいい」
シルビィは首を振る。
「ない」
「東京は」
「ない」
「西暦は分かるか?」
「なにそれ」
これで十分だった。
もう逃げ道がない。
堂島は息を吐いた。
「そうか、俺は、少なくとも異世界に来たと考えたほうが筋が通るか、少なくとも、俺の知ってる世界の延長じゃない」
言った瞬間、奇妙に腹が据わる。
怖さが消えるわけじゃないが、少なくとも形にはなる。
「まずやるべきはこの世界のルールを覚える」
堂島はまとめた金属片を指先で揃えた。
「君のやってることを見て、真似して、金を作って、情報を集める、最初はそれだ」
シルビィは少しだけ堂島を見ていたが、やがて視線を金属片に戻した。
「明日、工房に行く」
堂島は少し考えてから、短く言った。
「明日、工房に行くなら……俺も一緒に行ってもいいか?」
シルビィは堂島の服を見て、それから金属片に視線を戻す。
「近場だけ」
「分かった、近場でいい」
できることと、できないことの線は、まだ自分で引く段階じゃない。
情報は静かに整っていく。
灰色の光は変わらない。
けれど堂島の中では、世界の輪郭だけが、少しずつ固まり始めていた。
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