第2話 灰色の目覚め
目が覚めた瞬間、堂島は呼吸を確かめた
吸える、昨日ほど苦しくない、胸の奥の重さが薄くなっている
それでも空気は変だ、煤の匂いがする、喉の奥がざらつく
病院の匂いでも、自分の部屋の匂いでもない
天井が低い、板を渡しただけの屋根で、トタンが隙間を塞いでいる
光は灰色で、朝か昼かも判然としない
部屋は一間、寝台代わりの布、鍋、器
物はすくなく、散らかってはいない
(どこだ、ここ)
記憶はある、会社帰り、駅、缶コーヒー、改札
そこから先が飛んでいる、飛んだ先がこの部屋だ
扉の外で足音がした、軽い
扉が開き、冷たい空気が一息だけ入り込む
入ってきたのは、小柄な少女だった
フードをかぶり、擦り切れた茶色の外套、薄汚れた生成りのワンピース
黒髪のボブは少し乱れ気味だが、表情は落ち着いている
堂島は反射的に上体を起こした
知らない場所で、知らない相手と二人きり
状況が分からないのに、体だけが回復している
そのちぐはぐさが妙に怖い
少女は堂島の顔を見て、短く言った
「起きた」
堂島は喉を鳴らして声を整える
「君は……昨日の」
「シルビィ」
名乗られて、堂島は一拍遅れて名乗り返す
「堂島、晴彦だ」
シルビィは器を置き、水を注いだ
動作は手早く、慣れている
看病というより“日課の作業”の延長みたいだ
「水」
堂島は器を受け取り、少しずつ飲んだ
咳は出ない、息も続く、体調は確かに戻っている
「助けてくれたんだよな、ありがとう」
シルビィは頷くだけで、堂島の額に手を当て、すぐ引いた
「熱、ない」
「どれくらい寝てた?」
「半日、くらい」
半日
救急車でも病院でもないのに、半日でここまで戻る
まだ若い証だろうか
堂島は布の上から足を下ろした、床が冷たい、ざらつく
立てる、ふらつかない、体調は回復している
「動けそうだ、迷惑かけた」
「べつにいい」
短い、淡々としている
それが優しさなのか、線引きなのか、堂島にはまだ判別できない
堂島は質問を飲み込み、順番を決めた
焦って根掘り葉掘り聞けば警戒される、だが聞かないと、何も分からない
「ここは、どこだ」
シルビィは少しだけ間を置いて答えた
「底」
「そこ……?」
「下」
堂島は眉を寄せた
「下って、地下か?」
「ちがう、上があって、中があって、下」
階層、言葉の意味はわかるが理解ができない
映画やゲームの設定が現実に混ざってくる感覚
「今いるのが、その“下”?」
シルビィは頷いた
「そう」
堂島は口の中が乾くのを感じた
「この街は、そういう作りになってるのか」
「うん」
「上と中は、どういう場所だ」
シルビィは言葉を選ぶように、短く切る
「上は、きれい、遠い、中は、店と仕事、役の人」
情報は少ない、でも、嘘は混ざってなさそうだ
堂島はもう一つ聞く
「ここは、君の家?」
「私の」
短い肯定
堂島は部屋を見回した、簡素だが、必要なものは揃っている
生活感がうすいのが分かる
「俺を運んだのか、一人で?」
「一人」
その答えに、堂島は言葉を失いかける
小柄な体で、大人の男を、現実感がない、でも現実だ
「……すごいな」
シルビィは反応しない、器を片づける手を止めない
堂島は続ける
「俺は、どうやってここに来た、分かるか」
「知らない、倒れてた」
「落ちてきたとか、運ばれてきたとか……そういうのは?」
シルビィは首を横に振る
「ない」
短い否定が、逆に重い
事故や誘拐ならまだ説明がつく、だが“分からない”は情報が得られない
堂島は一度、息を整えた
整えたつもりなのに、呼吸が少し速い
「帰れると思うか」
シルビィは即答しなかった
考えているというより、答えがないから黙っている
「分かんない」
その一言で、胃が沈む
堂島は壁の隙間に目をやった、窓らしい窓はない
外が見えないのが、さらに不安を増やす
「外を見たいがいいかな?」
シルビィは堂島の服を見た、服だけを
「目立つ」
それだけ言って、壁の隙間を指で示す
「見るなら、そこ」
堂島は頷き、隙間に近づいた
灰色の霞、煤、白い蒸気、低い屋根の連なり、板と鉄の継ぎ目
遠くで蒸気が抜ける音、低い唸り、人の声はほとんど聞こえない
(日本じゃない)
そう思った瞬間、背中が冷える
工場の匂いに似ているのに、見たことのある風景の要素が決定的に足りない
道路標識も、電線も、車もない、代わりにあるのは蒸気と配管と、煤の層だ
堂島は隙間から目を離し、シルビィを見る
「ここは……国は」
言いかけて、口を閉じる
自分の質問が、前提ごと違う可能性に気づいたからだ
代わりに聞く
「この街の名前はあるのか」
シルビィは少し考えた
「あるかも、でも私は、底って呼ぶ」
堂島はうなずいた
名前すら掴めない、地図もない、帰り道どころか、現在地も不明
「……分かった」
口に出したのは、落ち着くためだ
分かったわけじゃない、何も分かっていない
シルビィは外套のフードを直し、立ち上がる
「私、外へ出る」
「どこへ」
「拾う、売る」
生活の言葉、短い、迷いがない
堂島はそれが少し羨ましくなる、自分の足場は、まだ空中だ
「俺は、ここにいてもいいのかな?」
シルビィは頷いた
「…ありがとう」
扉が閉まり、軽い足音が遠くなっていく
一人になった堂島は、しばらく立ったまま動けなかった
体は回復している、だからこそ、状況の分からなさがはっきりと恐い
もう一度、外の灰色を見る
煤と蒸気の底で、世界は当たり前みたいに動いている
(落ち着け、まずは情報だ)
それだけを、自分に言い聞かせた
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