煙と灰のエアロスカール
犬山三郎丸
第1話底の息
下層――。
正式な名で呼ぶ者は少ない。
ここではただ、「底」と言えば通じた
空気は重い
ボイラーが吐く煤、採掘用の蒸気機関の排気、継ぎはぎだらけの配管から漏れる白い息
それらが街路に溜まり、昼でも薄く霞んでいる
吸い込めば喉の奥がざらつき、息を吐くたびに胸の内側が重くなる
シルビィはフードを深くかぶって歩いていた
黒髪のボブは肩より少し短く、少し乱れ
落ち着いた表情のまま、薄汚れた生成りのワンピースに、裾の擦り切れた茶色のフード付き外套を羽織っている
裂けた縁が、歩くたびに小さく揺れた。
路地裏の木箱の影に、金具がいくつか転がっていた
煤で黒いが、形はまだ変形していない
(これなら……)
膝をつき、手早く拾い上げる
「底」は危険がないわけじゃないが、常に怯える場所でもない
人はそれぞれ、燃料と食い扶持のことで頭がいっぱいだ
余計なことに首を突っ込まなければ、だいたいは流れていく
角を曲がった先で、シルビィは足を止めた。
配管の影に、人が倒れている。
まず目に入ったのは、服だった。
ダークスーツ
布の質が違う、縫い目が細かく真っ直ぐで、「底」でよく見る補修の跡がない。
擦れも裂けも少なく、煤が表面に乗っているだけで、繊維の奥まで染み込んでいない。
――「底」で着る服じゃない
シルビィは周囲を一瞥し、しゃがみ込む。
倒れている男は、黒髪が少し乱れ、疲れた目つきのまま意識を失っている。
薄い無精ひげ。片手には、見慣れない缶を持っていた。
シルビィは男に顔を寄せ、声をかける
「……だいじょうぶ?」
反応はない、呼吸は浅いが、止まってはいない。
頬に触れる、熱い
「起きて、ここ、空気悪い」
二度目で、まぶたがかすかに動いた。
焦点の合わない目が煙の空を彷徨い、やがてシルビィを捉える。
「……ここ……どこだ」
掠れた声
「底、下層」
男は眉を寄せた。
「……下層?」
本当に分からない、という顔をする
「名前、言える?」
しばらく沈黙が続いた
それから男は、息を吐くように言った
「……堂島、晴彦」
「ドージマ……」
復唱して、覚える
シルビィは外套の内側に手を入れ、紙片と短い鉛筆を取り出した
『ドージマ』
それだけを書いて、すぐにしまう
堂島は咳き込んだ。煤混じりの空気が喉を刺し、息が続かない
「……っ」
「動くとつらい」
堂島はかろうじて頷く
「……ああ」
路地に置いておく選択もあった
誰かが助けるかもしれないし、揉め事になるかもしれない
「底」はそういう場所だ。
シルビィは男の腕を自分の肩に回し、体重を預けさせる。
「……こっち」
堂島は足を出す、ふらつきながらも倒れない。
歩調を合わせ、無言で進む、余計な声かけはしない。
いくつか路地を曲がり、壁と壁の隙間に押し込むように作られた小さな扉の前で止まった。
歪んだ蝶番が、触れると小さく鳴る。
「……そこ、座って」
中は簡素だった
板とトタンを継ぎ合わせただけの壁、一間だけの空間。
古い寝台代わりの布、鍋と器、最低限の道具。
生活に必要なものだけが置かれている。
堂島を中へ座らせ、扉を閉める。
内側の閂を落とす、念のため、それだけ。
「水、ある」
器に水を注ぎ、差し出す。
堂島は震える手で受け取り、少しずつ飲んだ。
呼吸が、わずかに落ち着く。
「……助かる」
シルビィは短く頷いた。
布を濡らし、絞って、堂島の額に当てる。
熱がある。下層の空気に、体が負けている。
「……寝て」
堂島は小さく頷いた。
「……ああ、ありがとう」
シルビィは布を替え、静かに座る。
外ではボイラーの唸る音が続いている。
煤と煙の底で、この小さな部屋だけが、ひととき静かだった。
――拾った
そう思ってから、考えるのをやめた。
理由は後でいい
今は、目の前の呼吸が続いていることだけが大事だった。
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