宮原蒼太編

第28話 ほめられたことが、よくわからない[1]

宮原蒼太(みやはらそうた)は、玄関のドアノブに手をかけたまま、動けなくなっていた。


もう五分は経っていると思う。

靴は履いている。

リュックも背負っている。

寒いから上着も着て、マフラーも巻いた。

それなのに、ドアが開かない。


指先にだけ力が入って、腕が固まっているみたいだった。

ドアノブの金属が冷たくて、その冷たさだけがやけに現実だった。


胸の奥が、きゅっと縮んでいた。

縮んだ胸の内側で、心臓が「やめろ」「行け」「やめろ」「行け」と、同じ音を刻んでいる。


「……行くって、決めたのに」


声に出すと、余計に涙がにじんだ。

自分の声は、いつも少し小さい。

小さい声で弱音を言うと、弱音が本当のことみたいに聞こえてしまう。


蒼太は、泣き虫だった。

自分でも、それは分かっている。


クラスで「泣き虫」って言われたことは、何度もある。

本当は、泣きたくて泣いているわけじゃない。

勝手に涙が出る。止め方が分からない。

泣いた瞬間に、周りの空気が変わるのが分かるから、余計に怖くなる。


学校でも、家でも、すぐに泣く。

怒られても、困っても、うれしくても。


うれしくても泣くのが、蒼太は嫌だった。

うれしいはずなのに、「泣くな」と言われる。

泣いている自分が、場を壊しているみたいで、申し訳なくなる。


だから、なるべく泣かないようにしていた。

その代わり、何も言わないようになった。


言わなければ、突っ込まれない。

言わなければ、笑われない。

言わなければ、泣いてるのも気づかれにくい。


そうやって静かにしているうちに、

自分が何を言いたかったのかも、分からなくなることがある。


今日は、誰にも言っていない外出だった。


「買い物に行ってくる」


そう言って家を出た。

嘘ではない。

駅前で、ノートとペンを買った。


ノートは無地に近い表紙の、ちょっと大人っぽいやつ。

蒼太は、キャラクターの絵がついたノートが嫌いだった。

見られたときに、「かわいいの使ってる」と言われるのが、なんとなく怖い。

大人っぽいものを選べば、少しだけ強く見える気がした。


ペンも、いつものシャーペンじゃなくてボールペンにした。

間違えたら消せない。

なのに、それを選んだのは――「今日のことは、ちゃんと残したい」と思ったからだ。


でも、そのあとに向かう場所は、

お母さんにも、先生にも、誰にも言えなかった。


言ったら、止められるかもしれない。

止められるのが嫌というより、止められたときに「よかった」と思ってしまいそうで怖かった。

自分の足で行くって決めたのに、誰かに「やめときな」と言われたら、すぐに引き返してしまう気がした。


――褒め屋。


スマホで見つけたとき、

最初は冗談みたいだと思った。


「ほめます」

「仕事です」

「治療ではありません」


書いてあることが、どれも変だった。

小学生が見る世界の「ほめる」は、だいたい家か学校にある。

お母さんが「えらいね」と言う。

先生が「よくできました」と言う。

どっちも無料で、当たり前にあるものだと思っていた。


でも、その画面の「ほめます」は、違った。

お金を払って、時間を決めて、約束をして。

まるで、塾みたいだった。

なのに、勉強じゃない。ほめるだけ。


変なのに、蒼太は画面を閉じられなかった。


「仕事です」と書いてあるのが、むしろ安心だった。

気をつかわなくていい。

「大丈夫?」って顔をされない。

「かわいそう」って言われない。

泣いたら困らせるかもしれない、という不安が少し減る。


仕事なら、ちゃんとやってくれる。

蒼太はそういうところが、少しだけ大人っぽかった。

頼るなら、頼る場所を選びたい。

ただの甘えだと思われたくない。


学校で、褒められた記憶は、ほとんどない。


勉強は、普通。

運動は、苦手。

声も小さい。


でも、蒼太は「普通」を守るのが、意外と上手だった。

テストで大失敗はしない。

宿題は忘れない。

掃除当番も、言われたことはやる。

目立たないけど、壊さない。


壊さないことは、褒められない。

「よくできた」は、できた人に行く。

蒼太みたいに「できないわけじゃないけど、できるわけでもない」人には、あまり届かない。


特に、隣の席の女子――篠原陽菜(しのはらひな)が、毎日言う。


「宮原、ほんとノロマ」

「それで男子?」

「また泣くんじゃない?」


陽菜は、蒼太より少し背が高い。

肩までの髪を、雑にひとつに結んでいることが多い。

よく動く。よく笑う。よく怒る。

声が大きいというより、言葉がまっすぐ飛ぶ。

狙ったところにボールを投げるみたいに、言葉を当ててくる。


蒼太は、その「当てられる」感じが苦手だった。

でも――陽菜の言葉には、変なところがあった。


本当に嫌っているなら、もっと突き放すはずなのに。

陽菜は毎日、同じタイミングで同じ言葉を言う。

そして、蒼太が消しゴムを落とすと、舌打ちしながら拾って投げ返してくる。

給食の牛乳が倒れそうになると、「ちょ、危な!」と手が伸びる。

係のプリントを配るとき、蒼太が迷っていると「そこ、後ろ!」と指で示す。


きついのに、離れない。

からかうのに、放っておかない。

蒼太はそこが、いちばん分からなかった。


言葉だけだ。

叩かれたことはない。

物を取られたこともない。


でも、毎日、同じ言葉を言われる。

それが積み重なると、「言葉だけ」じゃなくなる。

胸の中に、重い石みたいに残る。


蒼太は、それを「いじめ」だと思っていた。

でも、先生に言うほどじゃない。

先生に言うと、陽菜が怒られる。

怒られた陽菜が、もっと強い言葉を使うかもしれない。

そう思うと、怖い。


それに――先生に言っても、たぶん言われる。


「気にしない」

「相手も悪気ない」

「仲良くしなさい」


蒼太は「悪気ない」って言葉が嫌いだった。

悪気がないなら、どうして傷つくのか説明できなくなる。

自分の方が弱いみたいになる。


家で言えば、「気にしすぎ」と言われそうだった。

お母さんは忙しい。

蒼太はそれを知っている。

だから、話す前から「困らせる」と思ってしまう。


だから、誰にも言えなかった。


褒め屋なら、褒めてくれるかもしれない。

そうしたら、少し元気になるかもしれない。


元気になったら、陽菜の言葉も平気になるかもしれない。

平気になったら、泣かずに済むかもしれない。

泣かずに済んだら、もう少し普通に話せるかもしれない。


蒼太の願いは、そのくらい小さかった。

世界を変えるとかじゃない。

今日と明日を、少しだけ軽くするだけ。


そう思って、蒼太はお小遣いを貯めた。


百円。

二百円。

五百円。


ゲームセンターに行くのを我慢した。

コンビニでお菓子を買うのも我慢した。

我慢できた自分を誰も知らないのが、ちょっと悔しかった。


全部で、少し足りなかった。


足りないと分かった瞬間、予約をやめようと思った。

でも、やめたら、たぶん二度と行けない気がした。

「足りないから無理」と決めたら、自分の中で「だから結局だめなんだ」って声が育つ気がした。


それでも、予約ボタンを押した。


押した指先が、少し震えた。

震えたのは怖いからだけじゃない。

自分で何かを決めたときに震えるのは、蒼太にとって珍しいことだった。


「……行かなきゃ」


蒼太は、やっとドアを開けた。

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