第27話 褒めとは何ですか[4]
帰り道、芦原はスマートフォンをポケットに入れたまま歩いた。
入れたまま、というのが重要だった。
取り出さなければ。
開かなければ。
少なくとも「書いていない」という状態は保てる。
駅前の交差点。
赤信号。
足を止める。
立ち止まった拍子に、ポケットの中でスマホが腿に当たった。
存在を主張するみたいな、確かな重さ。
――「扱わなくていい。残ったところだけ、残します」
昼間の声が、ふいに蘇る。
正確な言い回し。
断定しない温度。
芦原は静かに息を吐いた。
「……難しいこと言うよな」
誰に向けた言葉でもなく、ただ口から出た。
独り言が出る夜は、思考が外に漏れやすい。
改札を抜け、電車に乗る。
吊り革につかまり、車内の広告をぼんやり眺める。
“効率化”
“成功事例”
“今すぐチェック”
どれも、判断を肩代わりしてくれる言葉だ。
同時に、しのの褒めを受けた後だとどれも安易な言葉に思えた。
座席が空いて腰を下ろす。
その瞬間、ポケットのスマホを取り出してしまった。
無意識だった。
画面が点灯する。
指が慣れた動きで、SNSのアイコンを探す。
――だめだ。
自分で思ったのか、
思わされたのか、分からない制止。
指が止まる。
でも、戻らない。
ホーム画面を見つめたまま、電車が揺れる。
書くとしたら、何を書く?
芦原は、頭の中で文章を組み立て始めている自分に気づいて苦笑した。
【今日は、ちょっと考えさせられる時間でした】
【答えは出てないけど、悪くなかった】
無難だ。
誰も傷つかない。
自分も安全だ。
“結論を書かない方がいい”。
昼の言葉が、また割り込む。
じゃあ、これも結論なのか?
「悪くなかった」って。
芦原はスマホを伏せた。
画面が暗くなる。
暗くなると、今度は不安が顔を出す。
――書かなくて、大丈夫か?
――誰も反応しないまま、今日は終わるのか?
反応。
その言葉が、胸の奥で引っかかった。
反応がない=無だった頃。
反応がない=失敗だった頃。
そんな時期が確かにあった。
でも今は違う。
違うはずだ。
芦原は、スマホを裏返したまま、膝の上に置いた。
逃げないけど、使わない。
触れるけど、開かない。
自分で決めた“間”。
駅に着く。
電車を降り、人波に流されながら改札を出る。
夜の冷たい空気が、昼より少しだけ優しい。
気温が下がったせいか、
それとも、身体が落ち着いたせいか。
コンビニの前で立ち止まり、温かい缶コーヒーを買う。
自販機じゃなく、コンビニを選んだのは、
「ついでに何かを見てしまう」可能性を減らしたかったからだ。
レジの列に並びながら、ふと思う。
――あの人に、褒められたか?
即答はできなかった。
褒められた、というより、“置かれた”。
そういった表現が正しく思える。
自分が言った言葉を、
そのまま机の上に戻された感覚。
「怖いから、決めた」
その言葉が、まだ胸の奥に残っている。
残っているのに、重すぎない。
レジを終え、袋を受け取る。
自動ドアが開き、また夜に戻る。
帰宅。
靴を脱ぎ、上着を掛ける。
部屋の電気をつける。
いつもの部屋。
いつものデスク。
いつもの椅子。
“いつも通り”が、今日は少し違って見えた。
椅子に座り、缶を開ける。
湯気が立つ。
一口飲む。
苦い。
でも、嫌じゃない。
この感覚を、誰かに共有したい衝動が、胸の奥でうずく。
言葉にしたら、軽くなる。
反応が来たら、安心できる。
それでも――。
芦原はスマホを手に取って、また置いた。
書かない、という判断は、
何かを“しない”だけなのに、
妙に体力を使う。
やらない、選ばない、預けない。
どれも、動かない行為なのに、
中ではずっと動いている。
時計を見る。
まだ、二十二時前。
早い。
それでいて今日は長い。
芦原はノートパソコンを開いた。
仕事をするつもりはない。
ただ、画面を開いた。
白い画面。
カーソルが点滅する。
ここなら、誰にも見られない。
芦原は、ゆっくり打ち始めた。
――今日は、答えをもらいに行ったつもりだった。
――でも、答えを返された。
打って、止める。
消さない。
――合ってるかどうかを、外に聞く癖がある。
――それは、楽だけど、息が浅くなる。
また止める。
これも、公開する文章じゃない。
――怖いから、決めた。
――この順番は、悪くない気がする。
最後の一文を書いて、芦原は手を止めた。
保存もしない。
送信もしない。
ただ、書いて、置く。
画面を閉じる。
そのまま、スマホを手に取る。
SNSのアイコンを見る。
でも、開かない。
「……今日は、いいか」
誰に言うでもなく、そう言った。
ベッドに横になり、天井を見る。
静かだ。
通知音もない。
不安がゼロになったわけじゃない。
書きたい衝動も、消えていない。
それでも――。
“書かない”という判断を、
自分で選んだ夜が、
確かにここにある。
目を閉じる。
画面は暗い。
それでも、息は浅くならなかった。
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