第25話 褒めとは何ですか[2]
午前十時過ぎ。
レンタルスペースのビルの前で、三枝しのは一度だけ足を止めた。
――止まることは、悪いことじゃない。
その言葉が、最近は“思い出す”というより“確認する”ものになっている。
息をひとつ整えて階段を上る。
三階。
角。
いつもの扉。
何も飾らない部屋。
机と椅子が二脚。
紙コップ。
メモ帳。
ペン。
香りも音楽も、余計な演出もない。
しのは、今日の予約メモを開いた。
依頼者:芦原 大地(あしはら だいち)
年齢:三十三
形式:対面(一時間)
備考:あり(長文)
「褒めてほしいポイント」の欄に、文章がびっしり詰まっていた。
箇条書きではない。整った段落。
“読み手”を前提にした文章。
しのは、最初の一文だけをもう一度読む。
――「方向性が合っているか、確認したいです」
確認。
判断。
今日の一時間は、その二つが絡まりやすい。
ノックの音がして、扉が開く。
「失礼します」
男が入ってきた。
背は高くない。細身。
黒いコートを脱ぎながら、部屋の端から端まで一瞬で見渡す。
目の動きが早い。
情報を拾う癖が、身体に染みている。
髪は短めで、整髪料の匂いは強くない。
目元に隈があるが、顔色は悪くない。
疲れているのに、姿勢は崩れていない。
こういった人は、合理を優先できる。
そして、合理だけで進められなくなったときに自分を責めやすい。
それでいて矛盾を許さない。
だから、整える。整え続ける。
「芦原大地さんですね」
「はい。芦原です」
声は落ち着いていた。
丁寧で、距離がある。
丁寧さが防御になっている種類の人だ。
席に座ると、芦原は自然に机の端に手を置いた。
指先が小さく動く。
ペンを回す代わりの癖みたいに。
「今日は……よろしくお願いします」
「こちらこそ。ありがとうございます」
しのは、いつもの説明をする。
一時間。途中でやめていい。無理はしない。
ここでは、正解を出さない。
依頼者を変えるための場所ではない。
芦原は頷いた。
理解している、というより、理解した“ふり”が上手かった。
「事前メモ、読みました」
そう言った瞬間、芦原の肩がほんの少しだけ緩んだ。
安心、というより“提出が受理された”感覚。
仕事の会議前に似ている。
しのはメモ帳を開く。
仕事として、始める。
「ありがとうございます。……結構、長く書いちゃって」
「長いのは、悪いことではないです。情報が多いのは、扱い方の問題なので」
しのはそう言いながら、メモ帳を開いた。
芦原はすぐに言った。
「まず確認したいんですけど――今日って、褒めてもらう日ですよね?」
声の形は柔らかい。
でも中身は、線引きの要求だった。
「褒めます。事実から拾います」
「“事実”って、どこまでを事実とします?」
もう来た、としのは思った。
“褒め”を受け取る前に“評価基準”を握りたい。
この手のタイプではよくあることだ。
「今日ここに来たこと。お金と時間を使ったこと。メモを書いたこと。そういう行動は事実です」
「なるほど」
芦原は頷く。
納得の速度が速い。
いや、速すぎる。
納得が速い人は、同じ速度で不安にも陥る。
「じゃあ、僕の相談というか……確認したいのは、二つです」
しのは頷いた。
「一つ目。僕の働き方。これ、合ってますか」
「合ってますか、というのは」
しのが問い返すと、芦原は少しだけ笑った。
「すみません。癖で。……フリーでやってて、案件選びとか、単価とか、方向性とか。今のまま積み上げて大丈夫かって」
“積み上げる”。
その言葉に、しのは引っかかりを覚えた。
積み上げる、というのは止まれない人の言葉でもある。
「二つ目は」
芦原は一呼吸置いた。
目線が机に落ちる。
「……僕、他人に決めてもらうのが嫌いなんです。でも最近、レビューとか反応とか数字とかで、勝手に決められてる感じがする」
しのは、相槌を最小限に留めた。
芦原は続ける。
「褒められたい、っていうのと……確認したい、っていうのは、似てる気がして。僕、どっちなのか分からない」
その一言は、今日いちばん“本音”に近かった。
しのは、そこを拾う。
「今、“分からない”と言いました」
芦原は少しだけ眉を上げた。
「……はい」
「分からない状態で来ました。それは、確認したいというより、止まりたい、に近い可能性があります」
芦原は、すぐに首を振りかけてやめた。
否定しようとしたけれど、否定する材料がない。
材料がないときに無理に否定すると、自分が傷つく。
その判断が働いた。
「……止まりたい、か。確かに」
しのはペンを置く。
「今日、褒めることはできます。ただし、褒めを“答え”として渡すことはしません」
芦原は、口元を引き締めた。
「答えとして渡す、って」
「『それで合ってます』と言うことです」
芦原の目が一瞬だけ揺れた。
欲しい言葉を、先に拒否されたときの揺れ。
しのは続ける。
「合っているかどうかは、芦原さんが決めます。私は、芦原さんがやってきたことの“事実”と、そこに見える“癖”を言語化します」
芦原は、苦笑に近い表情をした。
「……それ、まさにレビューじゃないですか?褒めってレビューなんですか?」
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