芦原大地編

第24話 褒めとは何ですか[1]

芦原大地(あしはらだいち)は、ノートを閉じた。


閉じた、というより、これ以上書く意味が見つからなくなった、が近かった。


机の上には、開いたままのノートがある。

無地に近い表紙。

罫線も、装飾もない。

大学生のころから、ずっと同じ型を使っている。

なぜなら変える理由がないからだ。


ページの半分以上は、すでに文字で埋まっていた。

箇条書き。

短い文。

主語は省略され、感情語はほとんどない。


・判断の回数が増えている

・正解/不正解が曖昧な案件が多い

・後戻りは少ない

・致命的なミスは出していない

・それでも「これで良かったか」が残る


ペンを指で回しながら、芦原はそれを眺める。


この作業自体は慣れていた。

むしろ得意だった。


仕事で詰まったとき。

人に説明する前。

何かを決める前。


頭の中を紙に移す。

構造に分解する。

不要な感情を削る。


そうやって、今までやってきた。


芦原大地は三十三歳。

都内でフリーのITエンジニアとして働いている。

準委任で週二日は客先に入る。


出社は週に二日。

あとは在宅。

服装はいつも似たようなものだ。

黒か紺のパーカー、無地のTシャツ、ジーンズ。

靴はスニーカー。時計はつけない。腕に何かが当たると気が散る。


人と話すのが苦手、というほどではない。

ただ、雑談は少ない。

必要な会話はきちんとするが余白を埋めるのが得意ではない。

要するに必要な会話以外はやりたくないのだ。


仕事の評価は悪くない。

むしろ、安定している。

頼まれたことは期限内に終わらせる。

仕様が曖昧なら確認を取る。

無理なものは無理だと言う。

もちろん、その場合は代案も出す。


「大丈夫そうな人」


周囲からは、そう見られている。

実際、大きな問題は起きていない。

生活も回っている。


平日はだいたい同じ時間に起き、同じような朝食を取り、同じ椅子に座り、同じ画面を見る。

卵とトースト。コーヒーはブラック。味を変えると集中が揺れる気がする。


夜は遅くならない。

酒もほとんど飲まない。ギャンブルもしない。

休日は外に出ることもあるが、決まった場所が多い。


――整っている。


少なくとも、外から見れば。


芦原はノートの余白に線を引いた。

そして、少し迷ってから書く。


・疲れているだけ?


すぐに、その下に小さくバツをつけた。


疲労なら対処は分かる。

休む。

負荷を下げる。

予定を減らす。


今回は、そういう感じじゃない。


身体は動く。

集中力もある。

眠れていないわけでもない。

むしろ眠れている。

眠れているのに、起きた瞬間に“未処理”が残っているという感覚。


それなのに――判断のあとに、微妙な違和感だけが残る。


「……変だな」


声に出して言ってみても、答えは返らない。

芦原は、椅子にもたれかかって天井を見た。


いつからだろう。

“自分で決める”ことが、少しだけ怖くなったのは。


怖い、というと語弊がある。

避けたいわけでも、逃げたいわけでもない。


ただ、自分の判断に、自分で責任を持ちきれない感じがある。

否、責任は取っている。

問題は、“取ったあと”だ。

取ったはずの責任が、夜に戻ってくる。


これまでは――違った。


決める。

やる。

結果が出る。

修正する。


その循環の中に、自分はいた。


今は、

決める。

やる。

結果が出る。

――そこで止まる。


「本当にこれで良かったのか?」

その問いが、処理されずに残る。


――ノートを見る。


書いてあることは、どれも正しい。

論点も整理されている。

感情も必要最低限に切り取られている。


それでも、結論が出ない。


芦原は、ふと思った。


「……一人で整理する前提が、もう合ってないのかもしれない」


その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。


誰かに相談したい、わけじゃない。

慰めてほしいわけでもない。

「大丈夫だよ」と言われたいわけでもない。


ただ、第三者に“読まれる前提”で自分の考えを置いてみたい。


意見はいらない。

判断もいらない。

でも、反応は欲しい。


その反応が、肯定でも否定でもなく「言葉として返ってくる」もの。

そうなるとSNSやチャットは不適当に思えた。

なぜならSNSは“見られる”が前提だ。

読まれる前に、評価が混ざる。


芦原はスマホを取り、検索欄を開いた。


「判断 迷う」

「考えすぎ 仕事」

「決められない エンジニア」


どれも、知っている内容ばかりだった。

理屈は分かる。

対処法も、もう何度も読んだ。

閉じようとして指が止まる。


――「褒め屋」


一瞬、笑いそうになった。

自分がその言葉を検索していること自体が少し可笑しい。


でも、説明文を読んで画面をスクロールするうちに、

芦原は眉を寄せた。


――事前に内容を書く

――時間を区切る

――評価はしない

――言葉として返す


「……レビュー工程に近いな」


ぽつりと、そう呟いた。


自分の考えを一度、外に出す。

相手は感情で反応しない。

結果は言葉として戻ってくる。


“褒め”という名前がついているだけで、やっていることは、思ったより構造的だと考えた。


それに、「褒める仕事」と明示されているのが逆に良かった。


ここでは、励まされることも、叱られることもない。

人格を評価されることもない。


ただ、書いた内容に対して言葉が返ってくる。

それはどんな相談サービスよりも今の自分には適しているものだと思える。


芦原は予約フォームを開いた。

入力欄に、さっきまでノートに書いていた内容を、ほぼそのまま写す。


整えない。

削らない。

説明しすぎない。


自分が今、どこで止まっているのか。

それだけは正確に残したかった。


送信ボタンを押したあと、ノートを閉じる。

机の上が少しだけ片付いた。


整理は、まだ終わっていない。

問題も、解決していない。


でも、“整理を一人でやらなくていい”、という判断だけはできた。


その判断が正しいかどうかは、まだ分からないまま。

芦原大地は、しばらくその場に座って、何も映っていない画面を見つめていた。


静かな部屋で、自分の呼吸だけが少しだけはっきり聞こえていた。

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