第23話 お金を払えば、何度でも[9]
朝、目が覚めたとき。
芹沢ひなたは、すぐにスマートフォンに手を伸ばさなかった。
それだけで少し驚いた。
以前なら、目を開けた瞬間に通知を確認していた。
寝ているあいだに何が起きたのか。
誰が何を言ったのか。
自分は、まだ“見られている側”なのか。
今日は違った。
布団の中で一度だけ深く息を吸って、吐く。
息の重さを確かめる。
苦しくない。
軽くもない。
ただ、ある。
それでいい気がした。
ひなたは、ゆっくり体を起こした。
カーテンの隙間から、朝の光が床に落ちている。
スマホは、枕元に伏せたまま。
画面は黒い。
黒いままでも、不安が跳ね上がってこない。
――あ、いま、止まってる。
その感覚に気づいて、ひなたは小さく笑った。
嬉しい、というより、意外だった。
止まるって、こんな感じだったんだ。
キッチンでお湯を沸かす。
昨日と同じほうじ茶。
同じ茶葉。
同じカップ。
特別なことは、何もない。
湯気が立ちのぼるのを、ぼんやり見つめる。
湯気はすぐ消える。
でも、カップは残る。
手に持つと、ちゃんと熱い。
――舌、やけどしないように。
そんな当たり前の注意が、自分の中から出てくる。
誰かに言われたわけじゃない。
コメントでも、DMでもない。
自分の声だ。
ひなたは、テーブルについた。
カップを両手で包む。
熱が、掌に移る。
「……いまは、これでいい」
声に出してみる。
誰にも聞かれない声。
でも、消えない。
スマホが震えた。
通知。
無意識に、心臓が一拍だけ早くなる。
ひなたは、すぐに画面を見なかった。
昨日の言葉が、少し遅れて効いてくる。
――順番だけ、あなたが決めてください。
順番。
先に何をするか。
何を後回しにするか。
ひなたは、カップを置いてからスマホを手に取った。
画面を上に向ける。
通知は、数件。
いいね。
コメント。
メンション。
全部、知っている光だ。
見慣れた色。
慣れすぎて、反射で指が動く。
……動きかけて、止まる。
「いまじゃない」
ひなたは、そう呟いて、スマホを伏せた。
逃げではない。
我慢とも、少し違う。
順番を、変えただけだ。
午前中、ひなたは大学へ向かった。
講義。
レポート。
キャンパスの空気。
誰かに話しかけられても、無理に笑顔を作らない。
かといって、閉じこもりもしない。
“ちょうどいい位置”が、少し分かる。
昼休み、学食で席を探していると、友人が手を振った。
いつもなら、ここで写真を撮る。
「今日のランチ」と書いて、投稿する。
反応を待つ。
今日は、撮らなかった。
「どうしたの?」と聞かれて、ひなたは少し考える。
理由を説明する言葉は、まだない。
「……なんとなく」
それだけで、通じた。
通じなくても、いいと思えた。
午後、講義の合間にベンチに座る。
昨日と同じ公園ではない。
大学構内の、日陰のベンチ。
ひなたは、何もしていない。
スマホも見ない。
音楽も流さない。
ただ、座る。
最初は、落ち着かない。
何かしなきゃ、という焦りが、胸の奥でざわつく。
置いていかれる気がする。
忘れられる気がする。
――それでも、座る。
数分。
五分。
十分。
ざわつきは、完全には消えない。
でも、波が少し低くなる。
飲み込まれない程度に。
「……止まれてる」
ひなたは、心の中で確認する。
確認しても、誰も褒めてくれない。
いいねも付かない。
でも、いい。
夕方、帰宅してから、ひなたはスマホを手に取った。
SNSを開く。
タイムラインが流れる。
コメント欄に、昨日の投稿への反応がまだ続いている。
憶測。
励まし。
勝手な解釈。
以前なら、全部に意味を見出していた。
いまは、少し距離がある。
書きたい衝動は、確かにある。
“整理された言葉”で、説明したくなる。
大丈夫です、と言いたくなる。
安心してください、と言いたくなる。
ひなたは、下書き画面を開いた。
一文、打つ。
【今日は、何も書きません】
そこまで打って、消した。
書かないことを、宣言する必要はない。
スマホを置く。
代わりに、ノートを開く。
白いページ。
誰にも見せない場所。
拡散されない場所。
ひなたは、ペンを持って、書く。
「止まると、不安になる」
「不安になると、預けたくなる」
「預けると、楽になる」
「楽になると、怖くなる」
言葉が並ぶ。
並べるだけ。
結論は、書かない。
書き終えて、ページを閉じる。
胸の奥に、少しだけスペースができる。
夜。
シャワーを浴びて、髪を乾かす。
鏡に映る自分を見る。
完璧じゃない。
整ってもいない。
でも、ちゃんと立っている。
ベッドに入る前、スマホがもう一度震えた。
メッセージ。
三枝しの、ではない。
連絡は、ない。
約束通りだ。
それでいい。
ひなたは、スマホを伏せて、目を閉じた。
今日一日を思い返す。
褒められていない。
でも、崩れていない。
決めてもらっていない。
それでも、息ができている。
——また、預けたくなる日が来るかもしれない。
——また、予約したくなる夜が来るかもしれない。
その可能性を、ひなたは否定しなかった。
否定しない代わりに、順番を思い出す。
止まる場所。
座ること。
息をすること。
そして、それでも足りなかったら、頼っていい。
それは、弱さじゃない。
判断だ。
ひなたは、ゆっくりと眠りに落ちた。
夢は見なかった。
でも、朝は来る。
止まりながら、動く日が。
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