第22話 お金を払えば、何度でも[8]
翌日、昼。
しのは約束通り、ひなたに連絡を入れた。
長い前置きはしない。説明を増やせば、それが“預け先”になる。
渡すのは、提案だけ。
今日は30分にしましょう。
対面ではなくオンライン。
褒めはしません。
事実の確認だけをします。
“判断を預けたくなる瞬間”を、一緒に見ます。
送信した瞬間、胸の奥に小さな揺れが走る。
これでいい。——その確信。
それでも、揺れる。——相手の反応が読めないという当たり前。
スマホはすぐ震えた。
ひなたから。
「お願いします」
それだけ。
絵文字も、過剰な謝罪もない。
昨日までのひなたなら「ごめんなさい」「迷惑ですよね」「私ほんとダメで」みたいな言葉が連なる。
それがない。
たった一行なのに、しのはそこで息を一つ深くした。
——昨日より、少しだけ“呼吸”のある文字だ。
言い訳でも、媚びでも、攻撃でもない。
依頼の形をしている。
依頼の形を保てるのは、判断が残っている証拠だ。
夜。
オンラインの通話画面を開くと、ひなたが映った。
部屋着。
髪はまとめきれていない。
顔の角度も、光の当て方も、整えていない。
いつもの“見せる自分”ではない。
画面の中のひなたは、少しだけ目の下が影になっている。
それでも化粧で消していない。
消していない、という選択が見える。
隠し切れない、ではなく、隠し切らない。
しのは、まず枠を作る。
枠を作るのは、優しさではなく安全だ。
「こんばんは。聞こえますか」
「……聞こえます」
ひなたの声は小さい。
小さいけれど、逃げる方向には震えていない。
踏みとどまる側の震えだ。
しのは頷いて、淡々と言う。
「今日は30分です。褒めません。大丈夫ですか」
ひなたは一瞬だけ唇を噛んだ。
噛んだまま、すぐに頷けない。
頷けないことが、今の状態を示している。
「……大丈夫、じゃないです。でも、やります」
しのは、その言葉を逃さない。
“やります”が出た。
それは願望じゃない。選択だ。
「今、“大丈夫じゃないけどやる”って言いました。それは、今日ここに来た理由になります」
ひなたの目が少し揺れる。
揺れの中に、反射的な笑いが混ざりそうになって、混ざらない。
その代わり、まぶたが少し赤くなる。
「……それ、褒めじゃないんですか」
「褒めじゃないです。事実です。あなたが言ったことです」
「……事実って、なんか、逃げ道ないですね」
「逃げ道は残します。責めるために言ってない。確認するためです」
ひなたは小さく息を吐いた。
それが“受け取った”合図に見えた。
しのは次へ進む。
質問は短く。答えは長くしてもいい。
ひなたが言葉を出す練習の場にする。
「昨日、何をしそうになりましたか」
ひなたは視線を落として、すぐ上げた。
落としたのは、逃げではなく選別だ。
言っていい形を探している。
「……SNSに書きそうになりました」
「どんな内容を」
「断られたって。ひどいって。私かわいそうって」
言った瞬間、ひなたは自分で自分が嫌になる顔をした。
口角が下がる。眉が寄る。
“あの自分”を口に出した恥ずかしさが、そのまま表情になる。
しのはそこを拾わない。
拾うべきは自己嫌悪ではない。
事実と順番だけだ。
「書きましたか」
「……書かなかったです」
「書かなかった。そこで一回止まってます」
ひなたが一瞬、顔を上げる。
褒めじゃないのに、目の焦点が合う。
“止まった”が、ひなたの中で言い換えになったのが分かる。
「でも、止まったっていうより……我慢した、です」
「我慢でもいいです。今は言葉の名前より、行動の確認です。書かなかった。これは事実です」
「……はい」
しのは間を置く。
ひなたの呼吸が整うのを待つ。
ここで畳みかければ、ひなたは“預ける速度”に戻る。
「書かなかった理由は」
ひなたは、すぐ答えられなかった。
口を開いて、閉じて、また開く。
その動きが、昨日までの“勢い”と違う。
勢いがないのは弱さではなく、迷いが残っている証拠だ。
「……書いたら、また……誰かに決めてもらえるから」
「決めてもらえる。誰に」
「……フォロワーとか。友だちとか。コメント欄とか。ひどいねって言ってくれて、私かわいそうって言ってくれて……」
「言ってくれると、どうなりますか」
ひなたは喉を鳴らした。
言うのが恥ずかしい内容なのに、言わないと前に進めないのが分かっている顔。
「……楽になります」
「楽になる」
「はい。……楽になる。だから、書きたくなる」
しのは頷く。
ここは否定しない。
否定すれば、ひなたは自己弁護に走る。
自己弁護は“判断の筋肉”ではなく“防御の筋肉”だ。
「楽になるのは、悪いことですか」
ひなたは少し驚いたように目を上げる。
「え……。悪くは、ない……でも」
「でも、が出ました」
「でも、楽になると……私、もう、そこで止まっちゃうんです。自分で決めなくてよくなるから」
「自分で決めなくてよくなる」
「はい……それが、怖かった。怖いのに、楽になるから……もっと怖い」
その言い方は、昨日より整っている。
整っているのに、痛みが薄くない。
薄くないから、しのは少しだけ肩の力を抜いた。
ひなたは今、痛みを言葉にしている。
薬を探す前に、言葉を出している。
「ここまでが、昨日“判断を預けたくなる瞬間”の輪郭です」
「……輪郭」
「中身を全部出さなくていい。輪郭だけ見ます。輪郭が見えたら、順番が作れる」
ひなたは頷きかけて、止めた。
頷きたいけれど、まだ信じ切れない。
「順番って……ほんとに、意味ありますか。だって、私、結局また……」
「また、なります」
しのは即答した。
希望で包まない。
現実を先に置く。
ひなたが一瞬だけ笑いそうになる。
笑いそうになって、泣きそうになる。
感情が混ざって、顔が崩れかける。
しのは淡々と続けた。
「なります。だから、順番が必要です。“ならない”を目標にすると、崩れたときに全部が終わったみたいになります」
「……終わったみたいになる」
「あなたが昨日、“止まりそう”って言ったのは、その手前だった」
ひなたは黙ったまま、目を伏せた。
伏せた目が、少し濡れている。
しのは問いを戻す。
次は、昨日の宿題。
止まる場所の話に移す。
「ひなたさんは、昨日“止まる場所”を決めましたか」
「……決めました」
「どこですか」
「公園。ベンチ」
「何を持って行きましたか」
ひなたは少し驚いた。
場所だけじゃなく、持ち物を聞かれると思っていない顔。
「……ほうじ茶、買って」
「飲みましたか」
「……飲みました。熱くて、ちょっと、舌やけどしました」
「舌が痛い、って分かるくらい、戻ってます」
ひなたの眉が少し上がる。
褒めではない。
でも“戻ってる”という言葉が、ひなたの胸に置かれる。
「……それ、いいことなんですか」
「いい/悪いじゃなくて事実です。あなたはベンチに座って、ほうじ茶を買って、飲んだ。舌が熱いって分かった」
しのは少しだけ声を落とした。
「それは、あなたが決めた」
ひなたの目が、少しだけ見開かれる。
褒めではない。称賛でもない。
でも、事実として置かれた言葉は、ひなたの中で“重さ”になる。
軽い肯定より、残る形の重さ。
「……それだけで、いいんですか」
「それだけでいい日があります」
しのは短く区切ってから続ける。
「それ以上やると、また預けたくなります」
「……え」
「“いいことをした”って確かめたくなる。確かめたくなると、誰かに見せたくなる。見せたくなると、反応が欲しくなる。反応が欲しくなると、判断を預けやすくなる」
ひなたは目を瞬いた。
自分の癖が、言葉で並べられていく。
並べられているのに責められていない。
その不思議さに、ひなたの呼吸が一つ乱れる。
「……私、そんなに単純ですか」
「単純じゃない。仕組みです。人の仕組みはだいたい似てます。あなたが悪いんじゃない」
「……じゃあ、私、どうすれば」
ひなたは反射で聞きかけて、途中で止めた。
“どうすれば”は、また預ける入口だと自分で気づいた顔。
しのはそこを拾った。
「今、途中で止めましたね」
ひなたは、驚いたように目を上げる。
「……はい。止めました。……やばいと思って」
「“やばいと思った”も事実です。あなたは今、判断をしてます」
ひなたは、笑いそうになって、泣いた。
声を出さずに、ぽろぽろと。
画面の向こうで肩だけが小さく揺れる。
しのは言わない。
「泣いていい」も言わない。
それも判断だからだ。
ひなたが泣くのを、自分で選ぶ時間を奪わない。
“許可”を出した瞬間、泣くことが“しのの管理下の行為”になる。
それは避ける。
沈黙が続く。
ひなたが鼻をすすり、ティッシュを探して画面の外に手を伸ばす。
戻ってきたとき、ティッシュの白さが自販機の光と少し似て見えて、しのは昨夜の路地を思い出す。
止まって息をして決める。
ひなたも今、止まっている。
30分が終わる頃、しのは時計を見る。
残り数分。
締めは“優しい言葉”ではなく“順番”で終える。
ひなたは目元を拭いて、声を整えて言った。
「……私、また予約したくなると思います」
しのは頷いた。
否定しない。誤魔化さない。
“なる”を前提に組み立てる。
「なります」
「……やっぱり」
「やっぱり、でいいです。その上で、順番を作ります」
ひなたは小さく頷く。
頷き方が、さっきより遅い。
遅いのは、受け取っているからだ。
「そのときは、予約する前に“止まる場所”に行ってください」
「……行って、座って、お茶?」
「それでいい。止まれたら、予約しなくていい日もある」
「止まれなかったら?」
しのは一拍置いて、言葉を選ぶ。
ここは“許可”になる。
許可は強い。
強いからこそ、慎重に。
「それでも止まれなかったら、予約を入れていい」
ひなたの肩が少し落ちる。
安堵が混ざる。
でもそれは依存の安堵じゃない。
“逃げ道がある”という安堵だ。
しのは最後を押さえる。
「順番だけ、あなたが決めてください」
ひなたは、ゆっくり頷いた。
理解した、というより。
受け取った。
飲み込んだ、に近い。
“お金を払えば、何度でも”の前に、順番がある。
その順番は、自分のものだ。
自分のものだ、と言い切れない日があってもいい。
でも、順番だけは自分で持てる。
持つ練習ができる。
画面が切れる。
通話終了の暗転が、部屋の静けさを広げる。
ひなたはスマホを伏せた。
SNSには書かなかった。
書きたい衝動は残っている。
指がまだ少し痒い。
でも、痒いままでもいいと思えた。
窓の外の音。
冷蔵庫の低い唸り。
自分の呼吸。
それらが“消えない”形で残っている。
残っているのに、苦しくない。
余韻は重いまま。
でも、その重さの中に、少しだけ息が混ざっていた。
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