第18話 お金を払えば、何度でも[4]

会社員だったころ。

三枝しのはまだ「褒め屋」でもなければ、「言葉を渡す人」でもなかった。

ただの事務職の一人で、よくある部署にいて、よくある空気の中で、よくある顔をしていた。


よくある、というのは便利な言葉だ。

その言葉に入れてしまえば、息苦しさは全部“普通”になる。

自分だけが弱いわけじゃない。どこにでもある。そういうもの。

そうやって、しのは自分を納得させていた。


会社のフロアは、いつも少し乾いていた。

空調のせいもある。蛍光灯のせいもある。

でも一番乾いているのは、言葉だった。

「すみません」「確認します」「承知しました」「念のため」

便利で、角がなくて、感情が混ざらない。

混ざらないように作られた言葉だけが行き交う。


その中で、しのの仕事は“飲み込む”ことに近かった。


誰かが怒っているときに、怒りの矛先を柔らかくずらす。

誰かが焦っているときに、焦りをそのまま受け止めて、手順に変える。

誰かが投げてきた面倒を、表情を変えずに受け取って、期限と優先度に変換する。

変換したものを、メールにして、資料にして、議事録にして、誰かが安心できる形に整える。


整える。

しのはそれが得意だった。

得意というより、そうすることでしかその場にいられなかった。


なぜなら、整えないと“迷惑”になるからだ。

迷惑になったら、評価が下がる。

評価が下がったら、居場所が減る。

居場所が減ったら、息ができなくなる。


――息ができなくなる、という感覚を、しのはまだその頃は言語化できていなかった。

ただ、帰宅しても胸の奥が固くて、眠れない。

眠れないまま朝が来て、起き上がると目の奥が痛い。

痛い目で鏡を見ると、顔が自分のものじゃない気がする。

そのままスーツを着て、駅まで歩いて、改札を抜ける。


繰り返し。

当たり前。

社会人として。


それでも、しのは自分を“真面目”だと思ったことはなかった。

真面目と言われるのは苦手だった。

真面目は褒めに見えて、期待の押しつけに聞こえる。

「真面目だから大丈夫」

「真面目だから任せられる」

「真面目だから我慢できる」


――我慢できる、という前提で積み上げられるのが、一番きつい。


残業が続いた週のことだった。

上司から「今週は山場だから」と言われ、皆が「ですよね」と笑って、当たり前のように机に戻った。

山場、という言葉が、まるで景色の名前みたいに扱われる。

登らなければならない。落ちたら終わり。

そういう暗黙が、声に出さずに共有されている。


しのはその日も、終電一つ前で帰った。

帰ってシャワーを浴びても、身体が温まる前に心が冷えていく。

ベッドに入っても、脳が勝手に今日のメールを再生する。

「この表現は失礼だったか」

「この一文で相手を怒らせていないか」

「このファイル名、間違ってないか」

何度も何度も、同じところを舐めるように確認する。

確認したところで、過去は変わらないのに。


朝、アラームが鳴った。

しのは止めた。

止めたのに身体が動かない。

起き上がるという単純な動作が、今日は遠い。

布団が重いのではなく腕が重い。

腕が重いのではなく呼吸が重い。


遅れる。

迷惑。

社会人として。

頭の中で、言葉だけが走っている。


それでも、しのは起きた。

起きて、化粧をして、スーツを着て、駅に向かった。

“できる”ことだけは、できてしまう。

できてしまうから、止まれない。


改札の前まで来て足が止まった。

止まったというより、止まってしまった。

定期券を持った手が宙に浮いたまま、改札機の緑色のランプが遠く感じる。

周りの人は流れていく。

スーツの肩が擦れ、コートの裾が揺れる。

流れの中に立ち尽くすのは、痛い。

でも、痛いのに、動けない。


――やばい。

――ここで止まったら。

――みんなに見られる。

――恥ずかしい。

――迷惑。

――社会人として。


“社会人として”という言葉は便利だ。

その言葉を出すと、全部が正しいことになる。

正しいことをできない自分が、悪いことになる。


しのは改札の脇に退いて、自販機の横に寄りかかった。

自販機の光が白くて、やけに眩しかった。

眩しいのに涙は出ない。

泣く余裕もない。


背後から声がした。


「三枝」


呼ばれ方が、業務用ではなかった。

苗字の、短い音。

振り返ると、ひとりの女性が立っていた。


栗原雅子(くりはらまさこ)。

当時のしのの直属の上司だった。

四十代半ば。背が高く、姿勢がまっすぐ。

髪はきちんとまとめられ、スーツの襟元に一切の乱れがない。

笑わないわけではない。けれど、笑いで場を丸めない人だった。

“優しい”という言葉が似合わないのに、なぜか部下が壊れにくい上司だった。


雅子は、しのの顔を一度見て、視線を改札の流れに移した。

それからまた、しのに戻す。


「……すみません」


しのの口から出たのは、それだった。

事情の説明ではなく、謝罪。

自分が止まっていることへの謝罪。

誰も咎めていないのに、先に“悪いこと”にしてしまう癖。


雅子は眉をひそめない。

慰める顔もしない。

ただ、淡々と言った。


「止まっていい。今、止まってるでしょ」


「でも……」


「でも、じゃない。止まっていい」


短い。

断定。

けれど、押しつけではなく、事実の提示だった。

それが、しのの胸を強く叩いた。


止まることは、悪いこと。

止まるのは、怠け。

止まるのは、逃げ。

止まるのは、迷惑。


そういう“常識”の前に、雅子は別の事実を置いた。

「今、止まってる」

その一文だけで、しのの中の言い訳が剥がれる。


「三枝。呼吸、してる?」


雅子の声は低く、感情が少ない。

少ないのに、刺さる。

刺さるのは、しのが呼吸をしていないことを自分でも薄々分かっていたからだ。


「……してます」


「してない顔してる」


即答だった。

雅子は、ゆっくりとしのの隣に立ち、自販機の光を避けるように角度を変えた。

そして、改札の流れを見ながら言う。


「あなた、走ってるのに息してない。呼吸しないで走ると、倒れるよ」


倒れる。

その言葉の重さに、しのは反射的に首を振りそうになった。

倒れない。私は倒れない。倒れてはいけない。

倒れたら迷惑だから。社会人として。


その“社会人として”が喉まで上がってきたところで、雅子が続けた。


「倒れたら戻るのに時間がかかる。止まって、息して、それから決めなさい」


決める。

その言葉が、しのの胸に刺さった。

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