第17話 お金を払えば、何度でも[3]

レンタルスペースのビルを出た瞬間、しのは一度だけ息を止めた。

駅前の人波は、昼の顔をしている。揚げ物の匂い。信号の電子音。笑い声。

そのすべてが「いつも通り」なのに、体のどこかが、いつも通りに戻り切れていない。


断った。

初めて、依頼を断った。


それは怒鳴ったわけでも、追い返したわけでもない。

机の上で言葉を整理して、境界線を一本引いただけだった。


――私は、今日はこれ以上、渡しません。


その一言を口にした瞬間の、相手の目。

驚き。

怒り。

その奥に置いていかれるような恐怖。


それを見た自分の胸が少しだけ痛んだ。

痛むから、やった。

痛むと分かっていたから、それでもやった。


「……歩こう」


声に出す必要はなかった。

体が勝手に駅とは反対方向へ向かう。

歩くことで決めたことが決まったままになる気がした。


横断歩道の手前で止まった。

赤。

信号待ちは、ただの待機時間のはずなのに、今日は違う。

止まると、余計なものが浮かぶ。


――止まることは、悪いことじゃない。


どこかで聞いた言葉。

自分が言った覚えはない。

口癖にしていたわけでもない。


でも、今、喉の奥に残っている。

苦い飴みたいに、溶けずに。


しのは眉間に小さく力を入れて、記憶の引き出しを探った。

たどり着くのは決まっている。

あのとき。褒め屋を始める前の、名前のない季節。



――まだ「三枝しの」が、誰かに向けて言葉を渡す側ではなかったころ。



信号が青に変わる。

人の波に押されるように渡って、しのは駅の反対側の、静かな路地へ入った。

小さなカフェ。古いクリーニング店。閉店した雑貨屋。

表通りから一枚剥がれたみたいな場所。


この道は、以前働いていた会社の最寄り駅にも似ている。

同じような路地。

同じような、薄い午後の日差し。


しのは足を止め、スマホの画面をつけて消した。

連絡は来ていない。

来るはずのないものを待つ癖だけが、手に残っている。


いま断った依頼者――ひなた。

女子大生。

顔立ちが整っているとか、服装が派手だとか、そういう情報は仕事に不要だ。

必要なのは「言葉の乗り方」だけ。

ひなたの言葉は、何度も同じ場所へ戻っていく。


「決めてほしい」

「これで合ってるって言って」

「私の価値、ありますよね」


褒めを欲しがっていた。

褒めそのものよりも、褒めが持ってくる“免罪符”を欲しがっていた。

言葉を受け取った瞬間だけ、呼吸ができる。

次の瞬間にはまた息が詰まって、同じ言葉を求める。


――お金を払えば、何度でも。

そういう形になりかけていた。


しのは、仕事の始まりのころを思い出した。

「言葉は治療じゃない」と書いたのは、誰に向けた警告でもなく自分への誓約だった。

自分が、誰かの“薬”になることを引き受けてしまうのが怖かったから。


――怖い、ではない。

――知っている、だ。


自分が、そういう役割にされる瞬間を。

誰かが、自分に預けてしまう瞬間を。

預けさせてしまう自分の、弱い気持ちを。


路地の先に、自販機があった。

白い光。

冬の朝の色。

さっきの信号待ちより、もっとはっきりと思い出が重なる。

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