第16話 お金を払えば、何度でも[2]

その頃、別の場所で——。


三枝しのは、レンタルスペースの机に手を置き、深呼吸をひとつした。


部屋は、いつも通り“普通”だった。

白い壁。

小さな机。

二脚の椅子。

紙コップと、電気ケトル。


演出がないことは、意図だ。

言葉を売るなら、言葉以外で誤魔化さない。

その代わり、言葉の扱いだけは誤魔化さない。


——そのつもりだった。


今日の依頼者は、十回目だった。


最初に来たのは、三週間前。

名前は、芹沢ひなた(せりざわひなた)。

二十歳。女子大生。


予約フォームの入力は丁寧で、文章も整っていた。

「褒めてほしいポイント」欄には、こう書いてあった。


《自己肯定感が低いので褒めてほしいです。

何を褒めてほしいか分からないので、話しながら決めたいです。》


“分からない”は、珍しくない。

むしろ多い。

しのは、そこから始めることに慣れている。


初回のひなたは、よく笑った。

笑い方が、軽いわけではない。

「笑うしかない」から笑う種類の笑いだった。

話しながら、自分で自分を小さく叩くような笑い。


「私、ほんとに何にもできなくて」

「友だちみたいにキラキラできないし」

「頑張ってるつもりなのに、何にも残らないんです」


しのは、いつも通りに拾った。

言い切らない。

決めつけない。

“拾えること”だけを渡す。


「ひなたさんは今日ここに来ました」

「予約を入れて時間を確保して、ちゃんと来た」

「それは、難しいです」


その言葉を聞いたひなたは、泣かなかった。

泣かずに笑った。

そして、目だけが少し赤くなった。


「……それ、褒めですか」

「そうです。褒めです」

「そんなの、当たり前じゃないですか」

「当たり前じゃない人がいます」


そのやり取りは、圭一のときと似ていた。

ただし、ひなたの“当たり前”には別の色が混ざっていた。


——当たり前だから、もっと褒めて。

——当たり前しか褒められないなら、意味がない。

——もっと、わたしの中身を見て。


口には出さない。

でも、目の奥がそう言っていた。


二回目の予約は、三日後。

三回目は、そのまた二日後。

四回目以降は、翌日。


ペースが、早い。


しのは、その時点で一度だけ確認した。

「頻度、どうしましょうか。褒めは薬ではないので」

圭一のときと同じ言い方で。


ひなたは、笑って頷いた。


「わかってます。依存とかはしたくないです」

「じゃあ、少し間を」

「……でも、間を空けたら、戻っちゃいそうで」


戻る、という言葉。

何に戻るのか。

ひなたは説明しなかった。

しのも、問い詰めなかった。


問い詰めることは、正しさのためにはなる。

でも、正しさは人を救わないことがある。

救わないどころか、追い込むことがある。


だから、しのは今日も机の上のメモ帳を開きペンを握る。


扉の向こうでノックがした。


「……失礼します」


ひなたの声。

少し高い。

でも、今日は揺れている。


「どうぞ」


ドアが開き、ひなたが入ってくる。

大学生らしい服装だった。

淡い色のニット。

短めのコート。

髪は整っている。

爪も綺麗。

“ちゃんとしている人”の見た目。


ちゃんとしているのに、目の下だけが薄く影を作っている。

睡眠不足か、泣いたのか、どちらか。


「こんにちは」

「こんにちは。来てくださってありがとうございます」


しのはいつも通りの温度で言う。

温度を上げない。

上げたら、相手はそこに縋る。


ひなたは椅子に座り、手を膝の上に置いた。

指が絡まる。

ほどける。

絡まる。

落ち着かない。


「今日、何から話しますか」

しのが問うと、ひなたはすぐ答えた。


「褒めてください」

それだけ。


短い。

短いけれど、重い。


「今日は、何を褒めてほしいですか」

しのは、淡々と返す。

淡々と返すことで、相手に“言葉を選ばせる”。


ひなたは、少し笑った。

笑って、すぐ顔を歪めた。


「……分かんないです」

「分からない、でも大丈夫です」

「でも、分からないのが嫌なんです」


ひなたは息を吸う。

吸って、吐く前に言葉が出る。


「この前のやつ、すごくよかったんです。“来た”って褒められたやつ。あれで、なんか……一週間くらい、ちゃんと歩けた」


歩けた。

比喩なのか、比喩じゃないのか。

しのは判断しない。

判断しないまま、拾う。


「歩けたんですね」

「はい。ほんとに。朝起きて、大学行って、授業受けて、課題やって。友だちとも話して。“私、やれてる”って思えた」


「思えた」

「でも、切れるんです。切れると、また戻る。戻ると、怖い。怖いと、何していいか分かんなくなる」


言葉が速い。

速いのは、置き場がない証拠だ。


しのは、いつもならここで“褒め”を渡す。

「切れると分かっていても、生活を回そうとした」

「怖いと言える」

「ここに来た」


——でも、今日は違う違和感があった。


ひなたの目が、しのを見ていない。

しのの“言葉”の方を見ている。

まるで自動販売機のボタンを見るみたいに。


押したら出る。

お金を入れたら出る。

欲しい味が出る。


ひなたは、少し身を乗り出した。


「ねえ、次、何を褒めてもらえばいいですか」

「……何を、ですか」

「私、これから。何を褒めてもらうのが一番効くと思います?私、何が足りないですか?」


足りない。

効く。

一番。


“褒め”が、道具になっている。

道具にすること自体は悪くない。

言葉は道具にもなる。

でも――“褒め”が、判断の代行になり始めている。


しのはペンを置いた。


「ひなたさん。確認しますね」


ゆっくり、温度を変えずに。


「今日は、“褒め”を、何かの代わりにしたい感じがしています」


ひなたが瞬きをする。

そして、口元が少し硬くなる。


「代わり?」

「判断の代わりです」


言った瞬間、しのの胸の中に小さな痛みが走った。

言い切りは“刃”になる。

でも今日は“刃”が必要だと思った。


ひなたは笑おうとして失敗した。


「だって……分かんないんです。何が正しいか。何を頑張ればいいか。頑張っても、間違ってたら意味ないじゃないですか」


その言い方は、今の若さの言い方だった。

正しさを先に確保したい。

確保できないと動けない。

動けない自分を責める。

責めるから、もっと正しさが欲しくなる。


しのは、心の中で一度だけ息を吐く。


「間違っても、意味がないわけではないです」

「でも、間違ったら――」


ひなたの声が詰まる。

詰まった声の奥に、別のものがいる。

“怖さ”。

“恥”。

“置いていかれる感じ”。


しのは、そこを拾おうとした。

拾えば、この人は少し楽になる。


でも――拾うことで、この人は次も同じ速さで予約を入れる。

拾ってもらうために。

効かせるために。

判断を委ねるために。


しのにはは、その未来が見えた。


「ひなたさん」


名前を呼ぶと、ひなたが顔を上げる。


「今日は、褒めません」

「……え」

「褒めない方がいいと思います」


ひなたの目が、一瞬だけ空になる。

空になって、すぐ濁る。


「なんで」


声が低くなる。


「前は褒めたじゃないですか!」

「前は、褒めが必要でした」

「今も必要です!」

「今は、“褒め”が必要というより、褒めに“判断”を預けたい感じがします」


ひなたは、唇を噛む。

噛んで言葉を絞り出す。


「だって、ここは褒め屋ですよね」

「はい」

「お金払ってるんですよ」

「はい」

「お金を払えば、褒めてもらえるんですよね?」


その言葉は刺さった。

刺さったのは、しの自身の中に“商売”の痛点があるからだ。


お金を受け取っている。

言葉を渡す。

渡した言葉で、相手が少し楽になる。

その循環の中に、危うさがあることも知っている。


だから注意事項に書く。

治療ではない。

専門家ではない。

薬ではない。


書いても伝わらない時がある。

“褒め”は甘い。

甘いものは、伝わる前に飲み込まれる。


しのは、声を落とさずに言った。


「お金を払えば、何度でも。そう思ってしまう気持ちは分かります。でも私は、何度でも渡しません」

「……なに、それ」

「ここで渡したら、ひなたさんは今日の判断を、私の言葉に預けます。それは、今の私の仕事ではできません」


ひなたの瞳が揺れる。

怒りと、焦りと、恥ずかしさが混ざる。


「じゃあ、何しに来たんですか、私」

「“褒め”のために来ました」

「なら褒めてよ!」

「褒めが、ひなたさんを壊す方向に働くなら渡しません」


以前、ゆいに言った言葉が、ここで再び形を取った。

ただし、今回は“痛み”の形だ。


ひなたは椅子から少し立ち上がりかけた。

立ち上がって座り直す。

震える膝を両手で押さえる。


「……私、依存してるって言いたいんですか」

「依存、という言葉でまとめたくはないです」


しのは即座に否定した。

まとめたら、ひなたはそこに閉じ込められる。


「でも、今は“委ねたい”が強い。それは危ないです」


ひなたは顔を伏せ、息を吐いた。

吐いた息が、少し震えている。


「危ないって……」

「ひなたさんの中の“怖さ”が、褒めの形を借りて増えます」

「……怖さって何ですか」

「今は、言葉にしなくていいです」

「じゃあ、どうすればいいの」

「今日は、ここで終わりにします」


ひなたが顔を上げる。

目が大きく開く。

驚きと、拒絶。

そして、すぐに涙の膜。


「一時間、まだ……」

「はい。残っています。でも、今日はここで止めた方がいいです」


しのは机の端に置いた封筒に手を置いた。

ひなたが持ってきた代金。

受け取ったもの。


「料金は、お返しします」

ひなたの喉が鳴る。


「……返すって、どういう」


「今日は、仕事を完了できません」


「完了って……」


「褒めを渡して終わることが、ここでの“完了”ではないです。ひなたさんが、少しでも自分の判断を取り戻す方向に進めること。今日はそれができない」


それは、しのの中の倫理だった。

倫理は、商売を壊すことがある。

でも、倫理がなければ、商売は人を壊す。


ひなたは、しばらく何も言えなかった。

涙は落ちない。

落ちないまま、目の奥が熱い。


「……私、嫌われた?」


ようやく出た言葉は、そこだった。

しのは即答した。


「嫌いではありません」

「じゃあ、なんで?」

「ひなたさんが、今のままだと苦しくなるからです」

「苦しいよ、もう」

「だから、今日は止めます」


しのは封筒をひなたの前に置いた。

押し返すような置き方ではない。

ただ、元の持ち主に戻す置き方。


ひなたは封筒を見て、手を伸ばしかけて止めた。

取ったら負け、みたいな顔をする。


「……私、どうしたらいいの」


その言葉は、祈りだった。

判断を委ねたい言葉。

でも同時に判断を取り戻したい言葉でもある。


しのは、ここで“答え”を渡さないと決めた。

答えを渡した瞬間に、また委ねが始まるからだ。


「ひなたさん。今日は、ひとつだけ。“自分で決める練習”を持ち帰ってください」


「練習……」

「今から、帰るか、帰らないか」

「帰るに決まってる」

「その“決まってる”を、ひなたさんが言えたこと。それが、今日の分です」


ひなたは、泣きそうな顔で笑った。

笑ってしまったことに、すぐ腹を立てる。


「……それ、ズルい」

「ズルくないです。あなたが言えたことです」


ひなたは封筒を掴み、立ち上がった。

動きが早い。

逃げるみたいに。


「……もう来ない」


言いながら、ひなたの目がしのの机の上を見た。

メモ帳とペン。

“言葉が出る場所”。


しのは、そこで追いかけない。

追いかけたら、ひなたは“ここ”に戻ってくる。

戻ってきたら、また委ねる。


ひなたはドアノブに手をかけ、振り返った。


「……もし、また来たら」


声が小さい。

威勢がない。


しのは、少しだけ息を吸って、言った。


「次の予約は、受けません」

「……え」

「少なくとも、今月は受けません」

「そんな」


「ひなたさんが、ここ以外の場所で“決める”時間が必要です」

「決められないから来たのに」

「決められないまま来続けると、決められないが強くなります」


「……ひどい」

「ひどいと言われても、今日はこれを守ります」


しのの声は一定だった。

一定でいることで、自分も崩れないようにしている。


ひなたは、何も言わずに部屋を出た。

ドアが閉まる音が、小さく響いた。


しのは、椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。

胸の奥に、重いものが残る。


断った。

初めて明確に断った。


“仕事”として、必要な断り。

でも、必要なだけでは割り切れない。


しのはスマホを手に取った。

いつもならここで短く投稿する。


「今日は褒めませんでした」


――そんなことは書かない。

書けない。

書いたら、ひなたはさらに傷つく。


ひなたじゃない誰かが、自分を責める材料にする。

そして何より、しの自身が“正しさ”を匂わせることになる。


しのは、何も書かないことを選んだ。


スマホを伏せ、ケトルのスイッチを入れる。

湯が沸く音が、やけに大きい。

沸騰の泡の音が、胸の中のざわつきを真似る。


――褒め屋にも限界がある。

その限界を自分が初めて目で見た。


限界は相手ではなく、自分の中にある。

渡せる言葉と、渡せない言葉。

渡したら壊れる場面。

渡さないと壊れる場面。


境界線は、線じゃない。

揺れる。

揺れるから、疲れる。


しのは紙コップに湯を注ぎ、湯気の向こうを見た。

窓の外は、冬の薄い光。

街は普通に動いている。

普通に動いている中で、今だけ自分が止まっている。


――止まることは、悪いことじゃない。


そう言ってくれたのは、誰だったか。


しのは、静かに息を吐いた。

吐いた息は、湯気に混じって消えた。

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